いだてん|アニー(大森安仁子)大河ドラマでシャーロットが演じる大森兵蔵を愛した純愛と社会福祉の女傑

      2019/01/06

大河ドラマいだてん
~東京オリムピック噺~

2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」で大森兵蔵(おおもりひょうぞう)の妻として登場するのがシャーロット・ケイト・フォックスが演じる『アニー』こと『大森安仁子(おおもりあにこ)』。

本来の『アニー』は夫の大森兵蔵より19歳も年上で、シャーロット・ケイト・フォックスが演じるのには無理があるとは思いますが、この『アニー』の生涯を知るとそんなことすらどうでもよくなるぐらい素晴らしい人物だと思うこと間違いなしです。

正直、この『アニー』を主人公にした大河ドラマか、朝ドラを作って欲しいぐらい。

大河ドラマ「いだてん」では、『アニー』の生涯について深く語られることはないでしょうが、皆さんもこれを機会に是非、純愛と社会貢献の女傑『アニー』について知って欲しいと思います。

 

出典:http://gramha.com/

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大森兵蔵と恋に落ちたアニー

1857年、アニー・バローズ・シェプリーは、イギリスの開拓民でニューイングランドの名門という家柄だったシェプリー家で生まれました。

17歳の時に父が殺害されるという事件がありましたが、アニーは画家になる夢をなる叶えるためボストンの美術学校へ入学。

翌年にはニューヨークで絵の教師をしつつ、アニーは自分のアトリエを持つようになります。

そしてアニーは49歳の時、絵に専念するために料理人を雇おうと考え、国際YMCAトレーニング・スクールを訪れました。

しかし、すでにスクールは夏休みに入っており、料理人のアルバイトに応募してきたのは日本人の大森兵蔵だけでした。

 

アニーは応募してきた大森兵蔵に料理が出来るのか不安に思いましたが、他に人がいないためそのまま採用し、住み込みで働かせました。

しかし、大森兵蔵はアニーの満足するような料理は作ることができず、結局アニーは自分で料理を作ることになります。

大森兵蔵もそれを苦にして辞職を申し出ますが、アニーは大森兵蔵のことが気になり始めており、料理は新しく黒人の家政婦に任せて使用人として残ってもらうことにしました。

すると大森兵蔵もアニーに次第に惹かれていき、日本で体育を広める夢や、児童福祉など社会事業を行う夢を語るようになります。

そしてアニーはいつしかその夢を応援したいという思いになっていました。

 

出典:https://www.imgrumweb.com/

 

 

しかし、アニーは大森兵蔵よりも19歳も年上で、雇主と使用人という関係であったため、夏休みと共にこの淡い恋は終わると思っていました。

そんな折、大森兵蔵は夏休みが終わる前に庭のベンチを塗り直そうとして、全身を漆でかぶれる事件を起こします。

そして、これをアニーが看病をしたことから、2人は急速に接近して交際に発展していきました。

夏休みが終わっても2人は文通で愛を育み、やがて2人は結婚を誓い合うようになります。

しかし、名門出身のアニーが日本人との結婚を親族に告げると、親族どころか地元の人間まで巻き込んで騒動となります。

最終的に親族はアニーを祝福して送り出すことになりますが、2人の結婚は地元の新聞にまで取り上げるほどのビックニュースになっていました。

そして1907年(明治40年)アニーと大森兵蔵はアメリカで結婚式を挙げます。

この時、アニーは50歳、大森兵蔵は31歳でした。

 

 

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愛する夫の遺志を引き継ぐ大森安仁子

結婚の翌年、大森兵蔵の帰国に伴いアニーも日本へ渡り、大森兵蔵の夢であるスポーツを広める夢や、児童福祉など社会事業への活動を手伝っていきます。

さらに2人は有志の婦人を集めて「有隣婦人」を組織し、1911年(明治44年)に念願の児童福祉施設「有隣園」を設立させました。

この「有隣園」は子供に遊びなどを指導する活動から始まり、やがて保育園としての機能も持っていきました。

そしてこの頃、アニーは結婚を反対していた大森家に受け入れられ、帰化して大森安仁子と名乗るようになりました。

 

やがて、夫・大森兵蔵はオリンピックへの選手派遣を目指す嘉納治五郎に認められ、「大日本体育協会」の設立に参加。

大森兵蔵は嘉納治五郎のために奔走し、金栗四三と三島弥彦を日本初のオリンピック代表に選びました。

この時、大森安仁子は初めて海外に出ようとする金栗四三に英会話やテーブルマナーを教えるなどして、オリンピック出場のために貢献しました。

やがてオリンピック日本選手団監督に大森兵蔵が就任。

大森兵蔵と大森安仁子は、金栗四三らを連れてストックホルム・オリンピックへ向かいました。

 

 

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しかし、ストックホルム到着後に大森兵蔵は長旅の間に結核がぶり返し吐血し、大森安仁子もその看病に追われます。

その甲斐あって大森兵蔵は何とか体調を戻し、開会式に出席する事が出来ました。

炎天下の中、行われたオリンピックでは大森兵蔵は病を押して金森四三の出場するマラソンを応援しますが、結果は棄権に終わり、大森兵蔵も再び体調が悪化してしまいます。

マラソン終了後、帰国の挨拶のため金栗四三が訪れても、大森安仁子が面会を断る程、その病状は悪化していました。

その後、ストックホルムに残って静養していた大森兵蔵ですが、文部省から依頼されていたアメリカの体育施設を視察するためにアメリカへと向かいます。

しかし、大森兵蔵がボストンに住む大森安仁子の親族を訪ねたときには、さらに様態が悪化し、医者からは入院を勧められました。

そして帰国を訴えていた大森兵蔵に、大森安仁子は船旅に耐えられる状況にないと判断。

すぐに入院させましたが、看病の甲斐なく大森兵蔵は死去してしまいました。享年38。

 

出典:https://www.sankei.com/

 

 

日本の社会事業に多大な貢献を残した大森安仁子

その後、大森安仁子は亡き夫・大森兵蔵の遺志を引き継ぐため、文部省から依頼を全うし日本へと帰国。

日本に戻った大森安仁子は、夫の遺志である児童福祉施設「有隣園」の運営に尽力しました。

そんな中、大森安仁子はアメリカ留学経験のある松田竹千代と出会い、共に日本の社会事業への貢献を誓い合います。

以降、松田竹千代は「有隣園」で働き、大森安仁子の右腕として活躍。

一方、大森安仁子は東京に公園を作ることを主張し、反対の声をのもろともせず「東京児童遊園協会」を発足します。

しかし、東京市長は全く公園を作る気配は見せなかったため、大森安仁子は公園を作ることを諦め「有隣園」に専念していきました。

 

1916年(大正5年)、大森安仁子は私財を投じて会館を建て、学生や外国人のボランティアを集めて「有隣園」の事業を拡大。

また、勤労青年の夜間学校「徒弟夜学校」を開設するなど、児童福祉事業に加えて貧困層に対する社会事業も行っていきました。

こののち、大森安仁子は第一次世界大戦の影響で貧困にあえぐ庶民のため、社会事業の再研究をさせようと松田竹千代をアメリカへに派遣。

やがて日本でも低所得者の貧困問題に注目が集まり始めると、大森安仁子は社会事業の先駆者として世間から高く評価されるようになり、「有隣園」にも国、東京都、東京市から補助金、宮内庁からの御下賜金が出るようになりました。

こうして「有隣園」が軌道に乗せた大森安仁子は、次に診療所の開設を目指して松田竹千代に帰国を要請し、1922年(大正11年)に「済生会東京府淀橋診療所」を開設。

1923年(大正12年)、関東大震災が発生すると「有隣園」は生活必需品の配給を行い、職業紹介所も開いて被災者の社会復帰支援にも奔走し、昭和恐慌の際にも無料宿舎事業を始めたほか、古着や日用品を低価格で販売して貧困層を支援し続けました。

 

 

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しかし、度重なる支援事業と日米関係の悪化で外国からの寄付金が集まらず「有隣園」の資金繰りは悪化。

それでも大森安仁子は老人ホームの開設を目指しましたが、1931年(昭和6年)頃から「有隣園」は事業の縮小を余儀なくされました。

また、松田竹千代が政界に進出したため、さらに「有隣園」の運営が厳しくなっていきますが、全国的に大森安仁子の功績は高く評価され、国は対米感情が悪化する中でも大森安仁子を表彰しました。

その後、84歳になった大森安仁子は第一線を退き、河口湖の別荘へと移って静養する。

別荘で大森安仁子は自分が書いた夫・大森兵蔵の肖像画を飾り、1941年(昭和16年)に夫の肖像画や親族に見守られ死去した。享年85。

大森兵蔵が亡くなって以降、大森安仁子は黒い服しか着ず、命日には人に会わずに部屋で亡き夫を忍んでいたという。

 

大森安仁子の死後、太平洋戦争で「有隣園」は焼失し、戦後も再開されることはなかったが、政界に進出していた松田竹千代は引退後、ベトナム戦争中にベトナムで孤児職業訓練センター「有隣園」を設立し、孤児の救済に尽力している。。

 

出典:https://www.gllc.or.jp/

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