大河ドラマ「いだてん」
マルタ・ゲネンゲル
大河ドラマ「いだてん」の第36話で、日本の前畑秀子とデッドヒートを繰り広げるドイツのマルタ・ゲネンゲル選手。
ヒトラーも観戦し、異様に盛り上がった決勝戦では、ゲネンゲル選手はおしくも前畑秀子に敗れて2着となってしまいました。
視聴者としては独裁者の目の前で敗れたことでゲネンゲル選手のその後が心配になってしまうところですが、案外心配はご無用だったようで。
レース直後も、前畑秀子と写真に何枚も収まっていますし、第二次世界大戦が起こってもゲネンゲルはわりと幸せに過ごせていたようです。
この記事では1936年ベルリンでの激闘後、ライバル前畑秀子と永遠の友情を結んだドイツの銀メダリスト・ゲネンゲルについて簡単に紹介していきます。
右1:ゲネンゲル 右2:前畑秀子
マルタ・ゲネンゲル
ゲネンゲルは1911年11月11日にドイツに生まれたドイツの競泳選手。
自国開催であったベルリン・オリンピックの2年前、1934年に開催された欧州選手権でゲネンゲルは200m平泳ぎで優勝し、ヨーロッパチャンピオンとなったことで金メダルの最有力候補として国内外から注目されていました。
ゲネンゲルが活躍した当時、ドイツはヒトラー率いるナチスによる暗黒の時代。
ユダヤ人迫害を進めるヒトラーは当初、オリンピックを「ユダヤの汚れた芝居」などと罵り、開催には否定的でした。
しかし、ヒトラーは側近で宣伝大臣のゲッペルスの助言で態度を急変させ、ゲルマン民族が最も優秀な民族であることをオリンピックで証明し、ドイツを世界の一流国であると世界に知らしめようと考えました。
このため、総力をあげてオリンピックを準備し、ナチスの宣伝に努めたのです。
そしてヒトラーは、オリンピックへ出場するドイツ選手の壮行会で一人一人に握手して激励したといいます。
ゲネンゲルもヒトラーから激励された一人で、のちに「壮行会で優しく手を握られた。あのころはひどいことをする人には思えなかった」と当時を振り返っています。
オリンピック前の記録会、出場したゲネンゲル選手は期待通りの泳ぎをみせ、世界記録を樹立します。
このとき「金メダルはゲネンゲル」と誰もが思いましたが、その3日後には日本の前畑秀子がその記録を10分の1秒縮めて記録を塗り替えてしまいます。
そして始まったオリンピックでは、ヨーロッパチャンピオン・ゲネンゲルとロサンゼルス・オリンピック銀メダリスト・前畑秀子の戦いに注目が集まりました。
予選では世界記録を大幅に更新した前畑秀子に対し、ゲネンゲルは自国開催のプレッシャーからか思うようなタイムが出ません。
しかし翌日の準決勝では、今度は前畑秀子がタイムを落とし、ゲネンゲルが調子を上げてタイムを縮めます。
自国開催で負けられないゲネンゲル、4年前の雪辱を誓う前畑秀子、二人にとって決勝は決して負けられない戦いとなりました。
1936年、ベルリン・オリンピックの200m平泳ぎ決勝。
会場に「マルタ」コールが響く中、号砲とともに選手たちがプールに飛び込むと、最初のターンではイギリスのストレー選手が1位で折り返し、前畑秀子が2位、ゲネンゲルが3位。
しかし、その後ストレーが失速し、金メダルの行方はゲネンゲルと前畑秀子の一騎打ちとなります。
追い上げるゲネンゲルと、逃げ切ろうとする前畑秀子。
ゲネンゲルがわずかな差で最後のターンを2位でおり返すと観客は総立ちとなり、大歓声が沸き起こりました。
そして大接戦の末、健闘虚しくゲネンゲルは前畑秀子に追いつくことができず、0.6秒の差で2着。
ドイツ国民の期待に応えらず銀メダルとなってしまいましたが、壮絶なレースを終えたゲネンゲルには落胆の表情はありませんでした。
前畑秀子の間に二人にしか聞こえない「友情」という名の号砲が鳴り響いていたのです。
ベルリン大会後、現役を引退したゲネンゲルは第二次世界大戦を生き抜き、コーチとして水泳に携わっていました。
その後1977年、共に様々な思いを背負って泳ぎ、後進の育成に励んでいたゲネンゲルと前畑秀子は思い出の地・ベルリンで再会します。
このとき、二人は抱き合って再会を喜び、一緒に50mを泳いだあと、ゲネンゲルは前畑秀子を自宅に泊めたといいます。
そして1995年、前畑秀子が亡くなったことを知ったゲネンゲルは「ヒデコや私が生きた時代は過ぎ去った」と涙を流し、その約5ヶ月後に84歳で生涯を終えました。
ゲネンゲルと前畑秀子はプールの中ではライバルでしたが、人生においては激動の時代に立ち向かってきた戦友だったのかもしれません。
【いだてん】あらすじ
【いだてん】人物・キャスト