大河ドラマ「いだてん」
高橋是清(萩原健一)
大河ドラマ「いだてん」で萩原健一が演じているのが、田畑政治(阿部サダヲ)に協力したコワモテの大蔵大臣・高橋是清。
高橋是清は行政や金融の分野で活躍し、内閣総理大臣や7度の大蔵大臣を務めた極めて重要な人物です。
この記事では、2019年3月に亡くなってしまったショーケンさんが最後に演じた、日本の財布を常に握っていた男・高橋是清について簡単に紹介していきます。
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高橋是清(たかはしこれきよ)
高橋是清は1854年〈嘉永7年〉に幕府御用絵師・川村庄右衛門と、きんの子として江戸で生まれた。幼名は和喜次(わきじ)。
きんの家は魚屋を営んでいたが、きんは若い頃より川村家へ奉公に出されていた。
すると庄右衛門(45歳前後)がきん(15歳前後)に手をつけ妊娠させたため、庄右衛門の正妻はきんに同情し、静養させながら世話をして無事に子供を出産させたという。
そして産まれた和喜次は、すぐに仙台藩の足軽・高橋覚治の養子になった。
やがて成長した高橋是清は横浜のヘボン塾で語学を学び、1867年(慶応3年)に藩命により勝海舟の息子・小鹿と海外留学に赴く。
しかし、高橋是清の金はアメリカ人貿易商によって着服されており、さらにホームステイ先でもだまされて奴隷のような生活を送る羽目になってしまった。
高橋是清はただ奴隷のように過ごすだけでなく、時にはストライキなどを行い、結果的にそれらが語学力を高めることになったという。
明治維新が成った1868年(明治元年)、高橋是清は帰国。
1873年(明治6年)に森有礼に薦められて文部省に入省すると、英語の教師もこなして共立学校(現・開成中学校・高等学校)の初代校長も務めた。
1889年(明治22年)、高橋是清は官僚としてのキャリアを捨て、一時的に実業家としてペルーで銀鉱事業を始めたが失敗。
帰国後、日本銀行に入行して副総裁となった。
やがて日露戦争が勃発すると、高橋是清は戦費調達のために同盟国の英国に向かった。
この時、英国の投資家たちは「日本の敗北・日本政府の返済能力・中立を宣言していた英国が軍費提供すれば中立違反となること」を懸念して金を出すことを渋った。
しかし、高橋是清は「日本は最後の一人まで闘い抜き、支払いは関税収入を充て、中立問題は米国の南北戦争中の事例があるから問題なし」と猛反論して公債募集を成功させた。
オダギリジョーも演じた高橋是清
その後、高橋是清は貴族院議員となり、1911年(明治44年)には日銀総裁に就任、1913年(大正2年)に大蔵大臣に就任して立憲政友会に入党した。
政友会の原敬が暗殺されると、高橋是清は財政政策を評価され内閣総理大臣にも就任したが、大黒柱の原を失くした政友会は混乱に陥り、半年で高橋内閣は崩壊した。
やがて高橋是清は政界を引退したが、1927年(昭和2年)に起こった昭和金融恐慌への対応のため、田中義一内閣に請われて大蔵大臣に復帰。
高橋是清はこの金融恐慌に対し、支払猶予措置を行うと共に、二百円札を大量発行して銀行窓口に積み上げ、預金者を安心させて乗り切った。
また1931年(昭和6年)、犬養毅内閣が発足すると高橋是清はまたも大蔵大臣に就任し、世界恐慌から日本経済を救った。
その後、五・一五事件で犬養が暗殺された際、高橋是清は総理大臣を臨時兼任している。
1934年(昭和9年)、岡田啓介内閣においても大蔵大臣となった高橋是清であったが、インフレの発生を抑えようと軍事予算の縮小を図ったことが軍部から恨まれ、自宅で反乱軍の青年将校らに暗殺された(二・二六事件)。享年83。
愛称はダルマさん
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【いだてん】人物・キャスト