大河ドラマ「いだてん」
幻の1940東京オリンピック②【無念返上編】
大河ドラマ「いだてん」は、これまでの1人の偉人の生涯を追ったドラマではなく、「東京オリンピック」開催のために尽力した歴史を描いたドラマ。
嘉納治五郎が夢に描いていた日本でのオリンピック開催は、主人公である金栗四三や田畑政治たちの活躍もあって次第に現実味を帯び、1936年(昭和11年)に「1940年・東京オリンピック」開催を勝ち取ることになりました。
しかし、この1940年開催の東京オリンピックは、やがて戦争の影響で返上され、「幻の東京オリンピック」として後世に語り継がれるようになっていきます。
この記事では、幻となった「1940年・東京オリンピック」の開催準備から返上までの歴史を簡単に紹介していきます。
1940東京オリンピック招致成功まではこちら↓
1940東京オリンピック【無念返上編】
オリンピック開催への準備と疑問
1936年(昭和11年)、ベルリンで開かれたIOC総会においてアジア初の東京オリンピック開催が決定した。
これを受けて東京市、大日本体育会などが中心となって「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」を成立し、委員長にはIOC委員の徳川家達公爵を迎えるなど準備に入っていった。
そして会場には明治神宮外苑競技場の改築して10万人規模のスタジアム建設を計画したが、明治神宮外苑を管轄していた内務省神社局が猛反対したため、駒沢ゴルフ場の跡地にメインスタジアムが建設されることになった。
その後、開催に向けて東京や横浜を中心とした道路の整備、美観工事、ホテルの建築、土産品の創生、職員の英語教育などが実行され、政府からも多額の補助金が出された。
また、オリンピック本番のテレビ中継を行うため開発も進み、さらに「紀元2600年記念・日本万国博覧会」も同年開催が予定されていった。
政府は夏季オリンピックの東京招致成功を受け、冬季オリンピックについても札幌に招致しようと活動し、1940年に札幌オリンピックが開催されることが決定した。
しかし、開催準備が進められている一方で、ヨーロッパとアフリカでは第二次エチオピア戦争が起きており、国際情勢は悪化の一途を辿っていた。
1937年(昭和12年)、衆議院予算総会が開かれると河野一郎(元朝日新聞記者、政友会)は、この国際情勢の中でオリンピックを開催することに疑問を抱き、議会で「オリンピック中止」に関する発言を行った。
そして、この4か月後に盧溝橋事件が起こり、日本軍と中国軍は泥沼の「日中戦争」に突入していくと、陸軍からも軍内部からの選手派遣に異論が唱えられていった。
嘉納治五郎の死去とオリンピック返上
1938年(昭和13年)、日中戦争の長期化により鉄鋼などの資材が不足し、競技場の建設にも支障が生じ始める。
議会では陸軍大臣・杉山元がオリンピック中止を進言し、河野一郎も再び開催中止を求め、国内では東京オリンピック開催に対して反対意見が広まっていった。
そして軍部からの圧力を受けた首相・近衛文麿は、戦争以外で使用する資材を制限する計画を決定し、この計画の中にオリンピックの中止を盛り込んだ。
その後、カイロで開催されたIOC総会では、1940年開催地を争って敗北していたフィンランドから、東京開催の中止とヘルシンキでの代替開催を求める声が上がり、中国からも開催都市変更の要望がなされた。
これをうけ、各国の委員たちは「中国大陸での動乱が収まらなかった場合、中国選手の出場はどうするのか?」と日本の委員たちに問うた。
しかし、軍部から圧力を受けていた日本の委員たちは満足な回答ができず、各国の委員たちを大いに失望させてしまう。
また、中国大陸に利権を求めようとしていたアメリカの思惑もあり、日中戦争を理由にアメリカIOC委員は東京オリンピック不参加の意志を伝えて辞任してしまった。
やがて東京オリンピック決定を事実上後押ししたラトゥール伯爵の元に、東京開催反対の電報が150通も寄せられ、ついにラトゥールは日本に対して開催辞退を持ちかけることとなった。
そしてカイロIOC総会からの帰途、嘉納治五郎が船上で肺炎により死去すると、日本政府は閣議で開催権を正式に返上することを決めた。
これまで東京オリンピック開催に多大な貢献をしてきた嘉納治五郎の遺体は氷詰にして持ち帰られ、横浜港では棺にオリンピック旗をかけられて船から降ろされたという。
1940東京オリンピック【その後】
その後、1940年のオリンピックは東京に代わってヘルシンキでの開催が決定したが、これも1939年(昭和14年)にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発したために開催できなかった。
日本では東京オリンピック開催に向けて急ピッチで進んでいた準備は中止され、組織委員会も大幅に縮小された。
しかし、すでに竣工寸前であった競技施設は1939年(昭和14年)までに完成し、駒沢にメインスタジアムを建設する案は、そのまま1964年(昭和39年)の大会に生かされた。
ちなみに1940年東京オリンピック返上を一番に訴えていた河野一郎は、1964年大会開催時に建設大臣および五輪担当国務大臣を務め、嘉納治五郎たちの夢「東京オリンピック開催」に大きな貢献をすることになる。
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