大河ドラマ「いだてん」
スカルノ大統領
大河ドラマ「いだてん」の最終盤では戦後の日本が描かれていくことになりますが、その中には昭和世代の人が実際にテレビで見たことがあるような黒澤明、三波春夫、森繁久彌といった有名人も数多く登場してくることになります。
しかし今回取り上げるのは、そんな懐かしの日本人ではなく、インドネシアの大統領「スカルノ」。
実はこのスカルノ大統領、現在バラエティー番組に引っ張りだこのデヴィ夫人を第3夫人にしていた人物です。
田畑政治が東京オリンピック組織委員会から追われる原因となったジャカルタのアジア大会。
主催した「スカルノ大統領」の側でデヴィ夫人も観戦していたんでしょうか?
では、「いだてん」の本編終了後のインタビューでのデヴィ夫人の登場を願いつつ、「スカルノ大統領」について簡単に紹介していきます。
出川哲朗も特別出演で出てきたらいいのにねwww
インドネシア独立へ
1901年6月6日、スカルノはオランダが植民地として支配していたジャワ島で生まれました。
幼い頃からオランダ語を学んだスカルノは、大学を卒業するとオランダの過酷な植民地政策に対して反感を持ち、反植民地運動を行っていきます。
やがてスカルノはオランダ留学から帰国した同志らとインドネシア国民党を結成し、各地で独立と民族の統一を訴えて国民を魅了して「民族の指導者」と認められるようになりました。
しかし、オランダ植民地政府からは目をつけられてしまい、何度も逮捕された挙句、スカルノは流刑となってしまいました。
1939年に第二次世界大戦が勃発し、オランダ本国はドイツに占領されましたが、その後もインドネシアはオランダ植民地政府による支配が続いていました。
しかし、太平洋戦争が始まると日本軍はフィリピンやマレー半島を抑え、インドネシアからもオランダ軍を追い出します。
そしてスカルノは解放され、現地の日本の司令官からインドネシアの安定のために協力を要請されました。
インドネシア独立のため、日本軍に協力する道を選んだスカルノはその後、昭和天皇と面会するなど日本との関係を強め、将来の独立への道筋を作っていきました。
太平洋戦争中、インドネシアは比較的に平穏な状態が続いていましたが、日本はやがて劣勢となり、1945年には連合国に降伏してしまいます。
するとスカルノは、日本軍が追い出したオランダが再支配を開始する前にインドネシアの独立を宣言しました。
その後、インドネシアは再植民地化に乗り出しきたオランダと激突。
この「インドネシア独立戦争」では、インドネシアは日本軍が放置した兵器と現地に残存した一部の日本軍将兵の助けを受けてゲリラ戦を展開しました。
1946年、オランダはインドネシア共和国を認めて停戦協定が成立しますが、翌年になると突然オランダ軍は攻撃を再開し、首都ジョグジャカルタを陥落させてスカルノらを逮捕し幽閉しました。
しかし、この頃になると国際世論は完全にスカルノらを支持しており、オランダは各国から圧力をかけられてインドネシアを放棄することになりました。
権力の集中とデヴィ夫人
独立を達成したスカルノは大統領となりましたが、インドネシアはオランダへの多額の債務補償など多く問題を抱えていました。
また、オランダが独立戦争時に行った分裂工作の影響もあり、国内の意思統一も難しい状態にもなっていました。
このためスカルノは十分なリーダーシップを発揮できず、国民は政治家たちへの不満を強めて国家分裂の危機を迎えます。
この状況を打破しようとスカルノは混乱の原因とされる議会制を停止し、自身が調停者として国家を指導する方針を打ち出しました。
すると混乱する政局に嫌気がさしていた国民はスカルノを支持し、1959年にスカルノは強大な大統領権限を得ることになりました。
一方、世界ではインドネシアと同じく、インドやフィリピン、中国などが戦後に続々と独立を果たしていました。
このため、スカルノは新興国のリーダーの1人として脚光を浴び、国際社会での知名度も高まっていました。
また、スカルノは戦後に世界有数の経済大国に返り咲いた日本と、経済面を中心に親密な関係を続けていました。
そして日本の商社「東日貿易」からの紹介を受けたスカルノは、日本人妻・根本七保子を第3夫人に迎えました。
この女性が後のデヴィ夫人です。
中国との関係強化と「9月30日事件」
1960年代になると、スカルノは「反帝国主義」を掲げてニューギニア島の併合、マレーシア領へ侵入など西側諸国と関係が深い近隣諸国との対立を深めていきました。
そしてソビエトや中国、北朝鮮などの共産主義諸国、さらにキューバなど東側諸国への接近を強めていきます。
1965年、マレーシアの非常任理事国入りに抗議するため国際連合を脱退したインドネシアは、「第二国連」を作るとてアラブ連合共和国、中国などから援助を受けて新興勢力会議(CONEFO)を結成しました。
これらの関係があり、1962年アジア競技大会ではアラブ諸国と敵対したイスラエルや、中国と対立する台湾を除外し、国際非難も受けています。
やがてインドネシアはアメリカやイギリスなどの西側諸国との関係が険悪となり、欧米諸国からの経済援助を停止されてしまいます。
この結果、国内は深刻な食糧不足とインフレが起こり、スカルノの求心力が失われていきました。
そして1965年9月30日、インドネシア全土でクーデターが発生し、これを即座に対応したスハルトの反クーデターの成功「9月30日事件」が発生します。
その後、国内では「共産党員狩り」が行われると、スカルノは共産党への接近を進めていた責任を問われ、実権はスハルトに譲られました。
インドネシアはその後、1968年に正式に第2代大統領に就任したスハルトが中国と断交し、アメリカやイギリスなどの西側諸国と接近していきました。
スカルノは「国父」としての地位は残りましたが、実際は軟禁状態にありました。
そして夫人や家族らが亡命、離散していく中、スカルノは1970年6月21日に死去しました。
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