大河ドラマ「いだてん」
永田秀次郎
大河ドラマ「いだてん」でイッセー尾形が演じるのは、東京市長の永田秀次郎。
この永田秀次郎は東京市長を2度務めており、1回目の市長時代では大河ドラマで「復興市長」として描かれたように関東大震災から復興を目指す名市長として称えられています。
しかし、震災から約10年が経過した2回目の東京市長時代では、永田秀次郎は東京オリンピック誘致を目指すあまり、前畑秀子に対してあまりにもひどい言葉をかけるクソ野郎になっています。
この記事では、現在では考えられない言葉を選手にかけたクソ市長・永田秀次郎について紹介しています。
永田秀次郎
永田秀次郎は1876年(明治9年)、長田村永田実太郎の次男として兵庫県三原郡長田村に生まれた。
弟に京都市土木局長、横浜市電気局長を務めた永田兵三郎がいる。
永田秀次郎は姫路中学校、第三高等学校を卒業したあと、内務省官僚を務め、東京市長、拓殖大学学長、貴族院議員などを歴任した。
1923年(大正12年)関東大震災が発生した際、東京市長だった永田秀次郎は不眠不休で災害対応にあたり、その後も生涯を通じて復興事業に尽力したことから「復興市長」と呼ばれた。
震災から約10年後、再び東京市長となっていた永田秀次郎は、ベルリンの次の1940年(昭和15年)のオリンピックを東京に誘致しようと熱心だった。
このため、1932年(昭和7年)に開催されたロサンゼルス・オリンピックで女子平泳ぎ200mで銀メダルを獲得した前畑秀子が帰国した際、「なぜ、あんたは金メダルを取ってこなかったんだ!たった10分の1秒差で2着とは!」と言った。
前畑秀子はこのオリンピックをもって水泳を引退するつもりだったが、この永田秀次郎の心無い一言で現役続行を決意。
そして前畑秀子は猛練習の末、4年後のベルリン・オリンピックで金メダルを取ることになった。
その後、永田秀次郎は広田内閣の拓務大臣、阿部内閣の鉄道大臣を歴任し、1943年(昭和18年)、満67歳で死去。
俳人としても知られていた永田秀次郎(俳名:永田青嵐)は、辞世に「震災忌我に古りゆく月日かな」と詠んでいる。
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