大河ドラマ「いだてん」
幻の1940東京オリンピック①【招致成功編】
大河ドラマ「いだてん」は、これまでの1人の偉人の生涯を追ったドラマではなく、「東京オリンピック」開催のために尽力した歴史を描いたドラマ。
嘉納治五郎が夢に描いていた日本でのオリンピック開催は、主人公である金栗四三や田畑政治たちの活躍もあって次第に現実味を帯び、1936年(昭和11年)に「1940年・東京オリンピック」開催を勝ち取ることになります。
しかし、この1940年開催の東京オリンピックは戦争の影響で返上され、「幻の東京オリンピック」として後世に語り継がれるようになっていきます。
この記事では、幻となった「1940年・東京オリンピック」の事前準備から招致成功までの歴史を簡単に紹介していきます。
東京オリンピック無念の返上編はこちら↓
幻の1940東京オリンピック①【招致成功編】
ムッソリーニとの約束
1929年(昭和4年)、日本学生競技連盟会長の山本忠興と国際陸上競技連盟会長のジークフリード・エドストレームは日本で会談し、「日本でのオリンピック開催」について盛り上がっていた。
これが東京市長・永田秀次郎に伝わると、すぐ誘致の機運が高まり出し、さらに山本忠興から「東京開催は実現可能」との報告書を受けて、東京市は公式にオリンピック開催に向けて動き出した。
まず永田秀次郎は国際連盟で事務局次長を務めている杉村陽太郎に招致運動への協力を依頼。
さらに永田秀次郎は留学経験を持つ市会議員を海外派遣し、IOC総会出席者に働きかける運動を行わせた。
1932年(昭和7年)、IOC総会で日本は『1940年オリンピック開催候補地』として正式立候補。
当初より東京のライバルとなる開催立候補都市は、ローマ、ヘルシンキと目されていた。
そんな中、日本では長年IOC委員を務めていた岸清一が病死し、代わりに副島道正がIOC委員となる。
すると1935年(昭和10年)、副島道正はイタリア大使・杉村陽太郎と共にイタリア首相・ムッソリーニと直接交渉を行い、ローマが候補地から辞退するという約束を取り付けた。
悲願の東京オリンピック開催決定
副島道正らの尽力でローマ辞退の約束は取り付けたものの、『1944年オリンピック開催候補地』にスイスのローザンヌが手を挙げると、1944年のローマ開催が不可能と考えたムッソリーニは約束を破って『1940年オリンピック開催候補地』に立候補した。
オスロで開かれた開催地を決めるIOC総会では、ヨーロッパでの開催と比べ東京開催の場合の問題点として「高温多雨」と「遠いから旅費と時間がかかる」が挙げられた。
これに対し、東京市が「参加希望国当たり100万円の補助を行う」と反論すると、他の2市も東京に倣い旅費、宿泊費の補助を公表し、開催地は一向に決まる気配がない。
そして政治的圧力で議決が左右されることを嫌ったIOC委員長・ラトゥールによって、開催地決定は1936年のベルリンIOC総会の投票まで延期されてしまった。
しかし、このあとイタリアは第二次エチオピア戦争を開始し、ムッソリーニは再びローマの立候補を引っ込め、東京開催を支持する旨を表明した。
国際連盟で事務局次長を務めている杉村陽太郎は、この後エチオピアの不支持を表明しているため、ムッソリーニとの裏取引があったともいわれる。
1936年(昭和11年)、IOC委員長・ラトゥールは、ローマの辞退によって一転有利になった東京を調査するため来日。
ラトュールは二・二六事件から立ち直ろうとする東京の姿を高く評価し、日本を離れた。
その後、ベルリンでIOC総会が開催され、開催地決定の投票が行われた。
この時、日本を代表して嘉納治五郎が「日本が遠いと言う理由でオリンピックが来なければ、日本がヨーロッパのオリンピックに出る必要はない」と演説した。
そして投票の結果、東京は36票、ヘルシンキは27票となり、アジア初となるオリンピック開催が決定するのであった。
幻となってしまう東京オリンピックへ続く↓
【いだてん】あらすじ
【いだてん】人物・キャスト