大河ドラマ「いだてん」
緒方竹虎
大河ドラマ「いだてん」でリリー・フランキーが演じるのが、田畑政治(阿部サダヲ)を可愛がり、良き理解者となっていく上司の緒方竹虎。
今年は天皇譲位による改元があったばかりですが、この緒方竹虎は新人時代に「大正」の新元号をスクープしたことでも知られているジャーナリストです。
リリー・フランキーが演じると、どんなキャラでも飄々とした人物になってしまいますが、実はこの緒方竹虎という人物はとんでもない運、実力、信念を持った記者で、やがて国を「情報」で動かそうとする政治家として大きく羽ばたいていきます。
この記事では「日本版CIA」の設立を目指した男・緒方竹虎について簡単に紹介していきます。
緒方竹虎
緒方竹虎は1888年(明治21年)、山形県山形市で緒方道平の三男として生まれた。
書記官だった父は転任した福岡で退官したのち、福岡農工銀行頭取を務めた人物だったが、退官に納得いかなかったらしく、子供たちには「一生役人になるな」と言っていたという。
緒方竹虎は福岡で小中学校時代を過ごし、12歳で始めた剣道は中学時代に小野派一刀流免許皆伝となり、達人の域に達していた。
卒業後、緒方竹虎は東京高等商業学校に進学したが、在学中に同校は文部省令で専攻部廃止を命じられることとなった。
緒方竹虎はこれに猛反対し、学生総退学の決議を行うなどの騒ぎを起こした首謀者として退学させられてしまった(申酉事件)。
その後、緒方竹虎は早稲田大学専門部の政治経済科に編入し、ツテもあって政治家・犬養毅、三浦梧楼らの門に出入りするようになっていった。
1911年(明治44年)、早稲田大学専門部を卒業後した緒方竹虎は、大阪朝日新聞社に入社して東京で勤務し、旧知の枢密顧問官・三浦梧楼から「大正」の年号をスクープするなど、新人記者ながら活躍する。
しかし朝日新聞社内では、村山龍平派と上野理一派の派閥抗争があり、敗北した上野派に属していた緒方竹虎は左遷されてしまった。
やがて白虹事件で村山派が退陣し、上野派が主導権を握ると緒方竹虎は30歳で論説班の幹事に抜擢される異例の出世を遂げた。
1919年(大正8年)、村山が朝日新聞社を株式会社化して社長に復帰。
同時に緒方竹虎は退社を決意したものの、同僚のとりなしで首脳陣と和解し、やがて東京通信部長に就任することになった。
以降、緒方竹虎は出世街道をまい進し、1928年(昭和3年)に取締役就任すると、1934年(昭和9年)には東京朝日新聞社主筆、常務取締役となる。
そして、1936年(昭和11年)には東京朝日新聞社の実質上の代表者として代表取締役専務取締役に就任した。
緒方竹虎が社長を凌ぐ実力・声望を持ったことに、村山家の2代目・村山長挙は快く思っていなかった。
また、緒方竹虎に権力が集中したことにより、朝日新聞社内でも反緒方派が形成されるようになっていった。
緒方竹虎は政党内閣寄りの立場だったが、満州事変以後は社論を軍に寄った路線に統一する。
それでも東京朝日新聞社は二・二六事件で反乱軍に襲撃されるなどしたが、緒方竹虎は悠々と応対し、反乱軍を引き上げさせた。
しかし、事件後は反緒方派が勢力を拡大し、緒方派は次々と粛清されていった。
そんな中、緒方竹虎の親友が首相・東條英機の意に沿った憲兵隊に身柄を拘束され、釈放後に自殺する事件が発生した。
葬儀委員長を務めていた緒方竹虎は東條からの供花を拒否したため、これで朝日新聞社は東條内閣と対立的な関係に陥ってしまった。
その後、緒方竹虎は社長の村山長挙、会長の上野精一を社主として経営から外し、自らを社長にするよう要求する。
しかし、逆に緒方竹虎は実権のない副社長に就任させられ、1944年(昭和19年)に退社して政治家として歩みだすこととなった。
朝日新聞社退社後、緒方竹虎は小磯國昭内閣に国務大臣兼情報局総裁として入閣し、同時に新聞指導を行うこととなった。
しかし情報局は陸軍の協力を得ることができず、必要不可欠な情報収集源を持つことができなかった。
また、緒方竹虎は首相・小磯と共に蒋介石との和平工作を推進したが、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、昭和天皇などの反対で失敗し、内閣総辞職となってしまった。
終戦後、緒方竹虎は鈴木貫太郎内閣の内閣顧問、東久邇宮内閣の国務大臣兼内閣書記官長兼情報局総裁に就任。
東久邇宮内閣では、緒方竹虎が元朝日新聞社員を多く入閣させたため「朝日内閣」と揶揄されたという。
東久邇宮内閣総辞職後、緒方竹虎は村山長挙が辞任した朝日新聞社の社長に就任する予定だった。
しかし、一時的にA級戦犯容疑者、公職追放となってしまったため、それが叶うことはなかった。
1952年(昭和27年)、緒方竹虎は吉田茂らと共にアメリカのCIAなどを参考にし、内閣総理大臣官房に「調査室」という情報機関を設立した。
そして翌年、吉田茂内閣が発足すると副総理に就任して、もっと強力な情報機関「日本版CIA」を新設する構想を立ち上げた。
しかし、これは国会や外務省、世論の激しい批判を浴び、「調査室」の拡充・強化だけでとどまってしまった。
吉田政権末期、政権の維持に執念を燃やす吉田茂に対し、緒方竹虎は自らの政治生命を賭けて内閣総辞職を主張し、これを認めさせる。
そして自由党は吉田総裁の後任を緒方竹虎に任せ、その後に自由民主党が結党されると緒方竹虎は総裁代行委員に就任した。
しかし、緒方竹虎は党支部結成大会で全国を飛び回ったために体調を崩し、1956年(昭和31年)に急性心臓衰弱のため急逝した。享年67。
【いだてん】あらすじ
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