大河ドラマ「いだてん」
村山龍平
大河ドラマ「いだてん」の後半、主人公である田畑政治(阿部サダヲ)が朝日新聞社の入社試験を受けた際、面接をしているのが朝日新聞社の社長・村山龍平。
周りのものが採用に反対する中、なぜか村山龍平は田畑政治のことが気に入って採用を決めてしまうのですが、大河ドラマでは、おそらくこの場面以外に出番はないでしょう。
よって村山龍平について特に知る必要もないのですが、私の故郷の偉人であるという自分勝手な理由で今回紹介してみようと思います。
どうか、村山龍平さんのこと少しだけでいいので知ってあげてください。
出典:http://www.kosetsu-museum.or.jp/
村山龍平
田丸藩士から朝日新聞社の社長へ
村山龍平は、嘉永3年(1850年)紀州藩田丸領(伊勢国田丸)に仕えた士族・村山家に生まれた。幼名は直輔。
幼少時代の村山龍平はケンカで形勢が悪くなるとに小刀を振り回すという、ワンパクを通り越したガキ大将で常に周囲の人を困らせていたという。
しかし、文久3年(1863年)に母が重病になってから村山龍平は改心し、冷静沈着な少年に変わった。
慶応3年(1867年)、村山龍平は田丸城に勤番することになったが、この年に大政奉還がなされる。
その後、村山家は明治4年(1871年)に大阪に移住し、村山龍平は父とともに西洋雑貨商「村山屋(のちに田丸屋、玉泉舎)」を営んだ。
明治11年(1878年)、村山龍平は大阪商法会議所(のちの大阪商工会議所)の最初の議員に選ばれ、翌年に朝日新聞の創刊に参加。
明治14年(1881年)に木村平八・騰父子から朝日新聞の所有権を獲得し、上野理一と共同経営にあたった。
この時、出資金総額の2/3を村山龍平が、1/3を朝日新聞社員の上野理一が分担している。
この上野理一の出資は当初極秘にされており、三井糸店当主である実兄・豊田善右衛門が資金を調達したといわれている。
このため朝日新聞社には政府・三井銀行からの極秘の経営資金援助があったと噂された。
明治24年(1891年)、村山龍平は第1回衆議院議員総選挙補欠選挙で当選すると以後、通算三期の衆議院議員を務め、大阪府会議員、大阪市会議員なども歴任。
大阪朝日新聞社長時代には全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)を創設し、第1回大会では羽織袴姿で開会始球式を務めている。
白虹事件と田畑政治
大正7年(1918年)、寺内内閣の弾劾が決議されたあと、大阪朝日新聞の記事に「白虹日を貫けり」という内乱を示す言葉があった。
これに対し、寺内内閣は「社会不安をあおっている」といいがかりをつけ、執筆者などを有罪にして編集幹部を退社に追い込んだ(白虹事件)。
この事件後、人力車に乗っていた村山龍平は右翼団体・黒龍会の構成員七人に襲撃を受ける。
そして村山龍平は全裸で石灯籠に縛りつけられ、首に「国賊・村山龍平」と書いた札をぶら下げられた。
その後、村山龍平は社長を退陣させられ、大阪朝日新聞は国家権力に屈服。
以降、大阪朝日新聞の論調の急進性は影をひそめていった。
1924年(大正13年)、東京朝日新聞社にいた村山龍平は、東京帝国大学を卒業した男を面接した。
周囲の者は皆、この男を採用しない方がいいと言っていたが、村山龍平だけは「顔が面白い」と言って気に入り、この男を採用することに決めた。
この男こそ、やがて東京にオリンピックを呼ぶことになる田畑政治だった。
昭和8年(1933年)、村山龍平は84歳で死去。
故郷の田丸城址は現在、玉城町有となっているが、これは村山龍平の寄付金をもって旧・田丸町が払い下げを受けたものである。
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