大河ドラマ「いだてん」
五・一五事件とは
大河ドラマ「いだてん」では、ロサンゼルス・オリンピックの直前に田畑政治は首相・犬養毅と面会し、オリンピック派遣選手応援歌発表の式典に出席することをお願いします。
当時、犬養毅は満州問題で戦争への発展が叫ばれる非常に頭の痛い状況でしたが、田畑政治に気さくに接して「いかなる場合も武力に訴えてならん。スポーツはいい。勝っても負けても清々しいものだ」と快く了承してくれました。
しかし、この式典は当日に犬養毅が殺害されるという大事件が発生したことによって中止となってしまいます。
この記事では、犬飼毅の「話せば分かる」という言葉が有名な、5月15日に起こった海軍青年将校たちによるクーデター「五・一五事件」について簡単に紹介していきます。
五・一五事件
背景と計画
1929年(昭和4年)、世界恐慌により大不況が訪れ、日本では相次いで企業が倒産して社会不安に陥っていた。
そんな中、海軍将校たちは若槻礼次郎が締結したロンドン海軍軍縮条約に対し不満を持ち、若槻襲撃の機会を図っていく。
1931年(昭和6年)、関東軍の一部が中華民国北部で満州事変を引き起こし、若槻内閣はこれを収拾できずに総辞職。
代わって内閣総理大臣となった犬養毅は、高橋是清を大蔵大臣に迎えて不況対策を実施し、一方で満州事変を黙認して陸軍との関係を良好なものとしていった。
こうして海軍将校たちの不満は若槻内閣から軍に理解ある犬養内閣になったことで収束するかと思われた。
しかし、若槻襲撃計画の中心人物・藤井斉は中国で戦死した際に「後を頼む」と遺言を残していた。
そして、これを知った仲間たちによって計画は継続し、標的が「政府」そのものに変わっていった。
藤井の同士であった海軍中尉・古賀清志は、「昭和維新」を唱える青年将校たちを取りまとめて資金と拳銃を調達し、さらに11名の陸軍士官候補生までも仲間に引き込んでいく。
彼らが考えた計画は、
①参加者を4組に分け、総理大臣官邸、内大臣官邸、立憲政友会本部、三菱銀行を襲撃。
②その後合流して警視庁を襲撃。
③別働隊は変電所を襲撃して東京を暗闇にする。
④混乱に乗じて軍閥内閣を樹立して国家改造を行う。
というものだった。
「いだてん」の犬養毅
事件当日とその後
5月15日午後5時27分ごろ、犬養首相官邸に三上卓海軍中尉、山岸宏海軍中尉ら9名が官邸に侵入した。
三上は食堂で犬養を発見すると、すぐに引き金を引いたが弾丸が装填されていなかったため不発に終わった。
その様子を見た犬養は「話せば分かる」と言い、三上たちを客間に招き入れる。
客間に入ると、犬養はこれからの日本の在り方などを聞かせようとした。
しかし、三上が犬養と問答をしている時、山岸が突然「問答無用、射て、射て」と大声で叫んだ。
その瞬間、遅れて客間に入って来た青年将校が発砲し、三上もこれ続いて犬養に重傷を負わせた。
そして山岸の指示により、9名は首相官邸から引き揚げていった。
その後、犬養はしばらく息があり、駆け付けた女中には「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と語ったという。
しかし、夜中になって犬養は次第に衰弱し死亡した。
三上卓
五・一五事件後
この日、計画通りに内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行などが襲撃されたが、大きな被害はなかった。
そして青年将校たちは午後6時10分までには東京憲兵隊本部に自首し、その後は資金提供者なども検挙されていった。
犬養の死後、後任の首相選定は難航。これまでは内閣が倒れると、天皇から元老・西園寺公望に後継者推薦の下命があり、西園寺が推薦して後継者が決まるという流れがあった。
このため西園寺は軍を抑えるために政党内閣を断念し、元海軍大将で穏健な斎藤実を推薦した。
西園寺は事態が収まれば、すぐに政党内閣に戻すことを考えていたが、結局日本の政党政治は第二次大戦後まで復活することはなかった。
一方、五・一五事件に関与した者たちは、それぞれ裁かれることになったが、当時の政党政治に対する反感から助命嘆願運動が巻き起こり、判決は軽いものとなった。
このことが、のちの二・二六事件の反乱を後押ししたといわれる。
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