大河ドラマいだてん
~東京オリムピック噺~
2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の主人公・金栗四三(かなくりしそう)の恩師として登場するのが役所広司が演じる『嘉納治五郎(かのうじごろう)』。
現代でも「ジゴロウ」と言えば「柔道」を連想させるほど、柔道界においては「父」よりも「神」に近い存在。
しかし、この『嘉納治五郎』はそんじょそこらの筋肉バカではありません。
東京大学を卒業し、英語もペラペラの文武両道。教育にも力を入れ、スポーツから世界平和を目指す偉大な人物でした。
大河ドラマ「いだてん」の主人公・金栗四三を初めての日本初のオリンピック選手にしたのも『嘉納治五郎』のおかげです。
では、簡単ではありますが『嘉納治五郎』の生涯について紹介していきます。
柔術に憧れた青年・嘉納治五郎
1860年(万延元年)、嘉納治五郎は摂津国の名家である嘉納家で生まれました。
父・嘉納治郎作は廻船業を行って幕府とも深い関係を持ち、勝海舟のパトロンでもありました。
やがて明治新政府が樹立すると、嘉納治五郎は政府に招聘された父と共に上京し、急激に近代化していく東京で書道、漢学、英語を学びました。
1874年(明治7年)、嘉納治五郎は育英義塾に入塾すると優秀な成績を収めていましたが、体力、腕力で負けてしまうことを悩み、柔術に興味を持ちます。
しかし、時代はすでに文明開化の時代であり、周囲は柔術を習うよりも、英語を学べと嘉納治五郎は諫められました。
その後、官立東京開成学校(東京大学)、ついで漢学塾二松學舍へ進学した嘉納治五郎は柔術への想いを捨てきれず、学問の合間に整骨院巡りをはじめます。
当時、整骨をする者は、柔術の名人が多いと聞いていたため、嘉納治五郎はそこで柔術を教えてもらいたいと思っていたのです。
柔術家となった嘉納治五郎
そして日本橋の整骨院を訪れてた時、ムキムキマッチョの老人・八木貞之助と出会います。
嘉納治五郎は緊張しながら柔術への熱意を伝えると、喜んだ八木貞之助は自分は老齢で指導できないからと同門で天神真楊流を学んだ福田八之助を紹介してくれました。
こうして天神真楊流に入門した嘉納治五郎でしたが、柔術の指導は「体で覚えろ」と投げ飛ばされるばかりでした。
嘉納治五郎は友人も稽古に誘ったりしましたが、途中で辞めてしまう有様。
そんな中でも嘉納治五郎は腐ることなく稽古を続け、メキメキと頭角を現して柔術界では有名になっていきます。
そして1879年(明治12年)、明治が誇る実業家・渋沢栄一の依頼を受け、来日中のユリシーズ・グラント前アメリカ合衆国大統領の前で柔術演武を行いました。
柔道を創始した嘉納治五郎
その後、師匠が亡くなっても嘉納治五郎は、天神真楊流の家元・磯正智、起倒流の飯久保恒年などから柔術を学び続けます。
そして1881年(明治14年)、東京大学を卒業した嘉納治五郎は、柔術二流派の技術を取捨選択し「崩しの理論」などを確立した『柔道』を創始し、翌年に下谷北稲荷町永昌寺の書院を道場として、囲碁や将棋から段位制を取り入れた道場「講道館」を設立しました。
道場は何度か移転を繰り返しながら、嘉納治五郎と門下生たちは稽古に励み、他の古武道の師範を招いて講道館の有段者を対象に「古武道研究会」を開き、剣術や棒術まで学ばせました。
こうしている内に講道館は有名になっていき、入門者も増加。試合の申し込みも増えて、他流試合でさらに技術を高めていきます。
そして1886年(明治19年)、講道館道場は警視庁の武術大会で優勝し、嘉納治五郎の柔道は警視庁に採用されて、その名を全国に轟かせました。
教育にも力を入れた嘉納治五郎
柔道を有名にした一方で、嘉納治五郎は教育者としても精力的に活動していました。
1882年(明治15年)、学習院の友人に招かれた嘉納治五郎は「政治学」と「理財学」を日本語と英語の両方で講義を担当します。
そして嘉納治五郎は英語学校「弘文館」を開設し、清国からの留学生も積極的に受け入れました。
また、自身も欧州視察に出かけ、学ぶことを忘れませんでした。
ちなみに嘉納治五郎はこの欧州視察の際、船の上で挑んできた巨漢のロシア人仕官をぶん投げたという逸話を残しています。
1891年(明治24年)、帰国後した嘉納治五郎は学習院の院長の生徒たちに対する身分差別に悩んでいました。
そんなとき、旧制第五高等中学校(熊本大学)から誘われ、嘉納治五郎は熊本に向かい、小さく、人材もいなかった学校の発展に尽力し、1893年(明治26年)からは通算25年間も東京高等師範学校(筑波大学)の校長を務めました。
オリンピックへの想いを馳せる嘉納治五郎
嘉納治五郎には柔道を世界中に広め、心身を鍛えることで平和にしたいという思いがありました。
このため、嘉納治五郎は日本のオリンピックへの参加に大きく貢献していきます。
1909年(明治42年)に東洋初のIOC委員に就任した嘉納治五郎は、1912年(明治45年)に日本初のオリンピック参加となるストックホルム・オリンピックの日本選手団の団長として参加。
このとき、自らが校長として教える東京高等師範学校の生徒・金栗四三をマラソンで出場させました。
その後も日本スポーツ界の重鎮として精力的に活動し、1936年(昭和11年)東京オリンピックの招致に成功。
さらに嘉納治五郎は、その2年後には札幌の冬季オリンピックの招致にも成功しましたが、1938年(昭和13年)にカイロでのIOC総会からの帰国途上、船内で肺炎により日本のオリンピック開催を見ることなく死去しました。享年77。
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