大河ドラマいだてん
~東京オリムピック噺~
2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」で主人公・金栗四三(かなくりしそう)たち日本選手団の監督として登場するのが竹野内豊が演じる『大森兵蔵(おおもりひょうぞう)』。
この時代に珍しく国際結婚をしていた『大森兵蔵』は妻のアニー(大森安仁子)と共に、ストックホルム・オリンピックに派遣される金栗四三たちの面倒を見ていました。
しかし、すでに『大森兵蔵』の体は病魔に侵されており、オリンピック後に最愛の妻を残して短い人生を終えることになります。
大河ドラマ「いだてん」でも出番は少ないものとは思いますが、この『大森兵蔵』の短く、愛に満ちた人生はきっと心打つことでしょう。
では簡単ではありますが『大森兵蔵』の生涯について紹介していきます。
亡き夫への愛を貫き日本の社会事業に貢献した女傑・大森安仁子の生涯
アニーとの出会いが運命を変えた大森兵蔵
岡山県岡山市の出身だった大森兵蔵は同志社普通校、京高等商業学校を中退後、渡米してカリフォルニア・スタンフオード大学で経済学を学んでいました。
しかし、虚弱体質だった大森兵蔵は日本人とアメリカ人の体格差に驚き、日本人の体格の向上を目指してスタンフオード大学も中退し、国際YMCAトレーニング・スクールで専門的な体育を学ぶようになります。
そして夏休みの時、大森兵蔵はのちに妻となる画家のアニー・バローズ・シェプリーと出会いました。
アニーは絵に専念するため、国際YMCAトレーニング・スクールで料理人のアルバイトを探しており、大森兵蔵が応募してきたのです。
面接で大森兵蔵は仕事内容の説明を聞き不安を抱き、アニーの方も同様でしたが応募してきたのは大森兵蔵だけだったので、そのまま雇うことになります。
こうして、大森兵蔵は住み込みで働くようになりますが、満足するような料理は作れず、すぐにアニーは自分で料理を作るようになりました。
このような状況に大森兵蔵は辞職を申し出ますが、アニーは大森兵蔵のことが気になり始めていて、使用人として勤めるよう頼みます。
その後、使用人として残った大森兵蔵はアニーと話すうちに次第に惹かれていきました。
そしてアニーは大森兵蔵の夢である日本で体育を広める話を聞き、その夢を応援したいと感じていました。
しかし、アニーと大森兵蔵は雇主と使用人という関係、さらにアニーは19歳も年上だったため、なかなか恋愛には発展しませんでした。
夏休みも終わりに近づいた頃、大森兵蔵は漆にかぶれて体中が腫れ上がってしまいます。
これをアニーが看病したことがきっかけとなり、ついに2人は交際に発展、そして結婚を誓い合います。
そして大森兵蔵が国際YMCAトレーニング・スクールに戻っても、2人は文通で愛を育んでいきました。
一方、アニーは親族に日本人との結婚を親族に告げると皆が驚き、地元の新聞が取り上げられる騒動になります。
しかし、アニーの決意は固く、最終的には親族は応援してくれることになりました。
そして、2人は1907年(明治40年)にアメリカで挙式。大森兵蔵31歳、アニー50歳の時でした。
嘉納治五郎の右腕になった大森兵蔵
翌年、大森兵蔵はアニーを連れて帰国し、東京YMCAの初代体育部主事に就任。
日本女子大学の教授としても体育学を教えながら、バスケットボール・バレーボール・テニスなどを指導しました。
大森兵蔵はアメリカで見てきた児童のための運動場やクラブハウスに感銘を受けており、日本にも子供の頃からの運動とその設備が必要だと説きます。
しかし、この大森兵蔵の主張は「アメリカのマネ」との批判され、1909年(明治42年)に東京YMCAの体育部主事を辞することになりました。
その後、大森兵蔵とアニーは有志の婦人を集めて「有隣婦人」を組織。
1911年(明治44年)に児童福祉施設「有隣園」を完成させます。
「有隣園」では子供に遊びを指導することから始まり、後に保育園としての機能も持って行きました。
そしてこの頃、アメリカ人との結婚を反対していた大森兵蔵の家族にアニーは受け入れられ、アニーは日本に帰化して大森安仁子と名乗るようになりました。
やがて、大森兵蔵はオリンピックへの選手派遣を目指す嘉納治五郎に認められ、「大日本体育協会」の設立に参加。
嘉納治五郎の右腕となって、日本のオリンピック出場のために奔走していきます。
そしてオリンピック予選の結果、金栗四三、三島弥彦が日本初のオリンピック代表に選ばれますが、当時はスポーツに対する世間の理解が無く、学生だった2人は出場に前向きではありませんでした。
そんな中、嘉納治五郎の説得もあって2人は出場を決意し、アニーも金栗四三に英会話やテーブルマナーを教えるなど後押ししていきます。
しかし、今度は日本選手団の監督を引き受ける者がいないという問題が発生。
肺結核で体調を悪くしていたにも関わらず、大森兵蔵が引き受けるしかありませんでした。
そして大森兵蔵、アニー夫妻、選手の金栗四三、三島弥彦の4人で日本を出発し、選手団長の嘉納治五郎は後からの合流することになりました。
オリンピックと大森兵蔵の死
日本選手団は船と鉄道を使い、40日をかけてスウェーデンの首都ストックホルムに入りますが、明らかに大森兵蔵の体調は悪化していきました。
そして、選手たちが練習を始める中、大森兵蔵は吐血してアニーの看病を受けていました。
そんな中、大森兵蔵は開会式のプラカードの国名表記について外国人にも分かるように「JAPAN」とすることを主張。
金栗四三はこれに反対して「日本」を強く主張します。
お互い譲らない状況に、到着したばかりの嘉納治五郎は「NIPPON」と表記することで二人を納得させました。
その後、静養に努めた大森兵蔵は、開会式になんとか出席できました。
オリンピック本番、短距離で出場した三島弥彦は、実力の違いから決勝への進出を辞退。
これに監督・大森兵蔵は短距離では勝ち目なしと考え、金栗四三に1000メートルを棄権させてマラソンに集中することを提案します。
しかし、この大森兵蔵の策も実らず、炎天下の中で金栗四三は途中棄権するという結果に終わりました。
悪条件の中、金栗四三を応援していた大森兵蔵は、その後体調が著しく悪化し、医者からも絶対安静とされてしまいます。
大森兵蔵は日本選手団が帰った後もストックホルムに残って静養し、文部省から依頼されていたアメリカの体育施設を視察するためにアメリカへと向かいました。
しかし、アメリカに着いた時には大森兵蔵の病状は危険なものとなっていました。
このため大森兵蔵は日本への帰国を決意しますが、アニーは船旅に耐えられないと判断し入院させることを選択します。
そして1913年(大正2年)、入院し治療を受けていた大森兵蔵はアニーに看取られ、短い生涯を終えました。享年38。
その後、アニーは大森兵蔵が受けていた文部省の依頼の視察を行い、報告書にまとめました。
そして日本に帰国したアニーは、亡き大森兵蔵の遺志を引き継いで児童福祉事業、貧困地域を支援する社会事業で多大な貢献をしていくことになります。
亡き夫への愛を貫き日本の社会事業に貢献した女傑・大森安仁子の生涯
【いだてん】あらすじ
【いだてん】人物・キャスト