大河ドラマ西郷どんその後
西郷隆盛生存説と大津事件
大河ドラマ西郷どん(せごどん)は最終回の西郷隆盛の死によって放送終了となりますが、あまりにも偉大過ぎた英雄の・西郷隆盛は、その後も「西郷隆盛は生きている?」などと生存説が流れ、民衆たちの間で圧倒的な人気を勝ち得ていきました。
そんな中、この西郷隆盛生存説を信じた男・津田三蔵が起こしたのが今回紹介する「大津事件」です。
本当に津田が生存説を信じていたのか、真偽のほどは定かではありませんが、大河ドラマ西郷どんファンにとってはなかなか面白い話なのでまとめてみました。
西郷隆盛生存説と大津事件
西南戦争の最中から、地球に接近した火星が『西郷星』と呼ばれて大騒ぎになっていましたが、戦争終結後も「西郷隆盛は死なずに生きている?」、「中国大陸に逃れた?」、「インドに隠れた?」などの噂も広まっていました。
さらに戦争終結から9年後の明治19年(1886)、軍艦・畝傍が行方不明になった折に西郷隆盛が畝傍に乗って日本に帰ってくるというデマまで流れます。
そして、そこからさらに5年が経過した明治24年(1891)、ロシアの皇太子(のちの皇帝ニコライ2世)が来日した際、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で警備にあたっていた警察官・津田三蔵が突然斬りつけるという事件を起こします。
出典:http://kokokumonogatari.shiga-saku.net/
津田本人の供述によれば、以前からロシアの強硬な姿勢を快く思っていなかったらしいですが、当時、民衆の間ではロシアに逃れていた西郷隆盛が皇太子と共に帰国すると言うデマが流れていました。
津田は西南戦争で勲章を授与されていたため、もし西郷隆盛が帰還すれば勲章を剥奪されるのではないかと思い込み、凶行に及んだとも言われています。
昔から源義経、真田幸村など、大河ドラマの主人公になるような悲劇のヒーローと生存説は切っても切れないもの。
西南戦争から14年が経過しても民衆たちが唱えた西郷隆盛生存説は、当時の新聞にも掲載されており、津田が本当に信じていてもおかしくはありません。
その後、大正から昭和と時代を経て西郷隆盛生存説は消えていきますが、人々の西郷を思う気持ちは消えることはなく、昭和12年(1937)には西郷隆盛終焉の地・城山に、昭和63年(1988)には鹿児島空港近くに西郷隆盛像が建てられ、今なお故郷の鹿児島県民をはじめとして西郷隆盛は人々の心の中に生き続けています。
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