大河ドラマ「麒麟がくる」
土岐頼芸(ときよりのり)
大河ドラマ「麒麟がくる」で尾美としのりが演じるのが、斎藤利政(道三)を従え、兄を守護の座から追い落とした土岐頼芸(ときよりのり/よりあき)。
尾美としのりさんといえば、2017年大河ドラマ「おんな城主直虎」で徳川四天王の榊原康政を演じたことが記憶に新しいですね。
あの時は徳川家康(阿部サダヲ)や井伊直政(菅田将暉)をはじめとする個性的な徳川家のボケに対し、唯一ツッコミを入れるような武将でしたが、今回の「麒麟がくる」では榊原康政のようなツッコミ役、キレ者ではなく、どちらかというとボケ役、情けない男・土岐頼芸になると思います。
この記事では、壮絶な兄弟間の家督争いの末に斎藤利政(道三)に国を奪われてしまう、戦国の荒波に乗り切れなかった男・土岐頼芸について簡単に紹介していきます。
土岐頼芸(ときよりのり/ よりあき)
土岐頼芸は、文亀2年(1502年)に美濃国の守護大名・土岐政房の次男として生まれた。
この当時の美濃国内は守護代の斉藤家が衰退して長井家が台頭するなど、不安定な状態が続いていた。
そして守護・土岐家も、この土岐頼芸の誕生で家督をめぐる争いが勃発することになる。
兄弟間の家督争い
父・土岐政房は成長した次男の頼芸を溺愛し、家督を継がせるために長男・政頼(頼武)を廃嫡しようと考えるようになっていた。
そして永正14年(1517年)、土岐頼芸は父の後押しで小守護代・長井長弘、長井新左衛門尉(斎藤道三の父)らに擁立され、守護代・斎藤利良の支持を受けた兄・政頼(頼武)と家督を争う戦となった。
この戦いでは兄・政頼(頼武)が勝利するも、翌年には土岐頼芸支持派が盛り返し、政頼(頼武)を越前国に追いやることに成功する。
しかし、政頼(頼武)もこれで引き下がることはなく、永正16年(1519年)には越前守護の朝倉孝景の支援を得て美濃に侵攻。
土岐頼芸支持派は圧倒され、結局は政頼(頼武)が美濃守護に就くことになった。
続・兄弟間の家督争い
家督争いはこれで終結したかに見えたが、その後も土岐頼芸は兄の打倒を計画し、大永5年(1525年)に再び挙兵。
そして享禄3年(1530年)、土岐頼芸は再び政頼(頼武)を越前国に追放して政権を奪取した。
ちなみに、この頃に長井新左衛門尉の子・長井新九郎規秀(のちの斎藤道三)を重用し始めたと考えられている。
しかし、土岐家の家督争いはこれで終わったわけではなく、天文4年(1535年)に土岐頼芸が父の17回忌を執り行った際に自らの正統性を宣言したため、兄の跡を継いでいた政頼(頼武)の子・頼純が美濃国奪還に動き出す。
頼純は朝倉氏に加え、六角氏からも支援を得て侵攻したため、戦火は美濃国全土に及んだ。
翌年、土岐頼芸は正式に守護の座に就くと、六角定頼の娘を娶り、六角氏と和睦。
これによって国内の争乱は急速に治まり、天文8年(1539年)には頼純との間に和議が成立した。
あざーす!
斎藤道三(利政)との争い
天文10年(1541年)、重臣の斎藤利政(のちの道三)が土岐頼芸の弟・頼満を毒殺する事件を起こす。
これにより、土岐頼芸と斎藤利政との関係は険悪となって戦に発展した。
そして天文11年(1542年)、斎藤利政に敗れた土岐頼芸は、子の頼次と共に尾張国へ追放された。
その後、土岐頼芸は尾張国の織田信秀の支援を得て美濃国奪還を目指す。
また、土岐頼芸は越前国で朝倉孝景の庇護下にいた頼純とも連携し、斎藤利政を追い詰めた。
この戦いで土岐頼芸は守護の座に復帰することになったが、天文15年(1546年)に斎藤利政と朝倉孝景が和睦すると守護退任を迫られ、代わりに頼純が守護の座に就いた。
さらに天文17年(1548年)、今度は織田信秀と斎藤利政が和睦したため、土岐頼芸は完全に支援者を失い、再び追放されてしまった。
その後、各地を転々とした土岐頼芸は歴史の表舞台から姿を消すが、織田信長による甲州征伐の際に武田氏に身を寄せていたところを発見される。
そして織田家臣となっていた元土岐家臣・稲葉一鉄のはからいで土岐頼芸は美濃国に戻ることができ、半年後に死去したという。享年81。
戦国の荒波に翻弄された土岐頼芸であったが、戦乱の最中でも多くの書画を書き残し、特に鷹の絵は「土岐の鷹」として珍重されている。
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