大河ドラマ「麒麟がくる」
足利義昭
大河ドラマ「麒麟がくる」で滝藤賢一が演じるのが、一癖も二癖もある室町幕府将軍家の足利義昭。
この足利義昭が将軍になれたのも、明智光秀が仲介となって織田信長を紹介したからですが、何かと調子に乗ってしまう足利義昭ですから、大河ドラマ「麒麟がくる」でも明智光秀はこの足利義昭と織田信長の間に挟まれて苦労する姿が描かれると思います。
今回は打倒・信長に執念を燃やす室町幕府最後の将軍・足利義昭について簡単に紹介していきます。
足利義昭
貧乏公方・足利義昭の苦闘
足利義昭は天文6年(1537年)に第12代将軍・足利義晴の次男として生まれた。幼名は千歳丸で兄には義輝がいた。
幼少時に千歳丸は跡目争いを避けるため、足利将軍家の慣習に従って仏門に入り、法名を「覚慶」と名乗っていた。
永禄8年(1565年)、第13代将軍・義輝が松永久通や三好三人衆らによって暗殺される事件が起こると、覚慶も捕縛されて興福寺に幽閉される。
しかし、義輝の側近であった三淵藤英、細川藤孝らに助けられて脱出に成功し、近江国に逃れた。
永禄9年(1566年)、覚慶は還俗して「足利義秋」と名乗り、足利将軍家の当主になる事を宣言。
早速、足利義秋は諸侯と連絡をとって上洛の機会を窺うものの、協力者だったはずの近江国の六角義賢が三好三人衆と密かに内通しているという情報を掴んだため、近江を離れて若狭国の武田氏を頼ることとなった。
しかし、武田氏も家督抗争や謀反などから国内が混乱しており、とても対応できる状況ではなかった。
このため、足利義秋は若狭から越前へ移り、朝倉義景に上洛への協力を要請することにしたが、朝倉義景もまた積極的に上洛の意思を示すことはなかった。
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将軍・足利義昭の誕生
永禄11年(1568年)、従兄弟の足利義栄が京都の実質的支配者であった三好三人衆に担がれて将軍となる。
越前で無駄な時間を過ごしていた足利義秋は「秋」の字が不吉であるとして「足利義昭」と改名し、朝倉家臣・明智光秀の仲介によって尾張国の織田信長を頼ることとなった。
足利義昭を受け入れた信長は北近江の浅井氏などの協力を得た上で上洛を開始し、六角義賢の攻撃も蹴散らして無事に京都へ到着。
信長の入京によって、三好三人衆が京都から一時退くと、タイミングよく14代将軍・義栄が病死したため、足利義昭は朝廷から将軍宣下を受けて念願の第15代将軍に就任した。
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将軍となった足利義昭は山城国に守護を置かず、三淵藤英を伏見に配置するなど将軍擁立のために一緒に行動していた奉行衆を職務に復帰させ、幕府の機能を復活させた。
永禄12年(1569年)、信長の兵が領国に帰還すると、足利義昭は三好三人衆の巻き返しに遭うも、奉公衆や近江の浅井長政らの奮戦により事なきを得る。
その後、足利義昭は信長に命じ、防衛機能を強化した烏丸中御門第を整備し、代々奉公衆として仕えていた者や旧守護家などを参勤させ、室町幕府を完全に再興。
そして信長の武功には「室町殿御父」の称号を与え、要望された旧・三好領である和泉一国の支配を認めて「和泉守護」に任じた。
さらに足利義昭は信長に管領の地位、副将軍への推挙を申し入れたが、これを信長は謝絶して先祖代々の「弾正忠」への正式な叙任のみを受けた。
足利義昭と織田信長の対立
その後、信長は武力による天下統一を目指し、伊勢国の北畠氏を攻めで足利義昭の意向に反する措置を勝手に取ったこと一因となり、足利義昭と信長の関係は徐々に悪化していく。
そして信長は「殿中御掟」という掟書を承認させ、将軍権力を制約をかけ始めた。
元亀元年(1570年)、信長は姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍に勝利すると三好三人衆らを討伐に乗り出した。
しかし、石山本願寺や比叡山延暦寺、長島一向一揆などが各地で蜂起したため失敗。
すると足利義昭はこれを期に上杉、毛利、本願寺、武田、六角、朝倉、浅井らに呼びかけ、信長包囲網を完成させた。
この包囲網には長年の宿敵でもあった三好三人衆らも加わっているが、この頃はまだ、信長の松永久秀追討に参加するなど対立は深刻なものではなかった。
しかし元亀3年(1572年)になると、信長は足利義昭に対して17条に及ぶネチネチとした批判の意見書を送る。
この意見書によって両者の決裂は決定的となり、ついに足利義昭は挙兵。
そして足利義昭の求めに応じた甲斐の武田信玄が上洛を開始し、三方ヶ原の戦いで徳川家康を撃破すると、東西からの挟み撃ちに信長は窮地に陥った。
しかし、この直後に朝倉義景が勝手に越前に撤退してしまったため、信長は何とか難を逃れることなった。
足利義昭の追放
元亀4年(1573年)、信長は子を人質として和睦を申し入れたが、足利義昭はこれを信じることができず拒絶する。
しかし、東では上洛を目指していた武田信玄が急死し、後方の憂いがなくなった信長と足利義昭は形勢が完全に逆転してしまう。
さらに信長が京に入ると、細川藤孝や荒木村重など有力な幕臣たちは足利義昭を見限って信長についてしまった。
それでも足利義昭は居城である烏丸中御門第で抵抗を続け、信長の和睦要請も再び拒否。
このため信長は朝廷を使って勅命による講和を成立させた。
しかし、足利義昭はこの講和をすぐに破棄し、烏丸中御門第を離れて要害・槇島城で挙兵する。
織田軍の総攻撃にさらされ、ボロボロになった足利義昭は家臣にうながされ、ついに降伏することになった。
その後、信長は足利義昭を追放し、朝倉氏、浅井氏も滅ぼして信長包囲網を完全に崩壊させた。
一方、足利義昭は京都から追放されても、誰かに擁立されれば復帰する可能性があった。
このため足利義昭も将軍職として、近臣や大名を室町幕府の役職に任命するなどの活動を行い、権威の保持に努めていた。
しかし、奉行衆などは所領安堵を条件に幕府の職務から離れ、信長配下の細川藤孝や明智光秀などの麾下に置かれてしまう。
やがて、足利義昭は顕如らの仲介もあって三好義継の拠る河内国の若江城へ移った。
その後、和泉国の堺に移った足利義昭のもとに、信長の使者・羽柴秀吉が訪れ帰京を要請された。
しかし信長からの人質提出を求められたため、足利義昭はこれを拒絶し、交渉は決裂した。
足利義昭と本能寺の変
天正2年(1574年)、足利義昭は紀伊国の泊城に移り、信長包囲網を再構築するため、関東で争っていた武田勝頼、北条氏政、上杉謙信の三者に対して和睦をするよう呼びかけた。
しかし、上杉家は北条家との和睦を拒否したため、武田と上杉の間だけの和睦となり、長篠の戦いでの大敗以降、窮地に立っていた勝頼の状況だけが改善する結果となった。
天正4年(1576年)、足利義昭は毛利輝元を頼り、足利家にとっての由緒ある備後国の鞆に移った。
ここで足利義昭は京都への帰還や信長追討を目指して全国の大名に書状を送り続けるが、天正6年(1578年)に上杉謙信が死去し、天正8年(1580年)には石山本願寺も信長に降伏、さらに天正10年(1582年)に武田勝頼が信長によって滅ぼされ、足利義昭の夢はどんどん遠のいていった。
しかし、そんな中で突如、信長が家臣の明智光秀に討たれる本能寺の変が起こった。
この本能寺の変には足利義昭が黒幕であるとの説もあるが、明智光秀が変後に送った書状には義昭の名が全くなく、関連はなかったとされるのが定説である。
出典:https://movie.walkerplus.com/
足利義昭のその後
信長の死を好機と捉えた足利義昭は、毛利輝元に上洛の支援を求める一方で羽柴秀吉や柴田勝家にも同様の働きかけを行い、復活の機会を待っていた。
しかし、すでに過去の人となっていた足利義昭の復活は実現することはなく、やがて秀吉が関白太政大臣となって「関白秀吉・将軍義昭」という時代が訪れた。
天正15年(1587年)、足利義昭は九州平定に向かう途中の秀吉と対面し、島津氏が秀吉の軍門に下ったのちにようやく京都に帰還した。
その後、足利義昭は秀吉に従って将軍職を辞し、名を「昌山(道休)」と号すると秀吉から身に余るほどの領地をもらい厚遇された。
晩年、足利義昭は御伽衆に加えられ、秀吉の良き話相手となり、慶長2年(1597年)に大坂で死去した。享年61。
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