大河ドラマ「麒麟がくる」
朝倉義景
大河ドラマ「麒麟がくる」でユースケ・サンタマリアが演じるのが、天下の凡将として名高い朝倉義景。
美濃を追われた明智光秀が帰蝶の命を受けた伊呂波太夫に勧められてたどり着いた先の越前。
NHK公式でも朝倉義景は「幕府と懇意な光秀を、いいように利用する」とあるので、明智光秀は斎藤道三とは違った振り回され方をしていくのではないかと思います。
それでは、戦国武将としてはいつも残念な男として評価されてしまう朝倉義景について簡単に紹介していきます。
朝倉義景
上洛拒否と信長との戦い
朝倉義景は天文2年(1533)、朝倉氏の第10代当主・朝倉孝景の嫡男として越前に生まれた。幼名は「長夜叉」で母は若狭武田氏の一族の娘。
天文17年(1548)に父が死去すると16歳で家督を継いで「延景」と名乗ったが、当初は一族の重鎮・朝倉宗滴の補佐を受けていた。
やがて将軍・足利義輝より「義」の字を与えられて「義景」と改名し、宗滴の死去後に自ら政務を行なうようになった。
永禄8年(1565)、将軍・足利義輝が三好家に暗殺されると、義景は若狭武田家を頼っていた義輝の弟・足利義秋(のちの義昭)を越前に迎えた。
この義秋の仲介によって加賀一向一揆との和解も成立し、義秋が「義昭」と名を改めて元服すると義景は上洛を求められるようになった。
しかし、義景は嫡男・阿君丸が急死していたため、悲しみのあまり上洛には前向きになれなかった。
また、義景は上洛して三好家と対立することを恐れていたともいう。
そして上洛の意思がないことを知った義昭は義景は止めるのも聞かず、美濃国の織田信長を頼ることになる。
その後、義景は若狭国を支配下に置くなど領土を拡大していったが、実際は政務を一族に任せて自身は遊興にふけっていたという。
やがて信長が上洛し、義昭が将軍となると義景は上洛を命じられる。
しかし義景はこれを拒否したために永禄13年(1570)に織田・徳川連合軍に攻め入られた。
劣勢だった朝倉軍だったが、この時は浅井長政が信長を裏切って織田軍の背後を襲ったため、信長は京都に撤退し事なきを得ている。
出典:http://niwareki.doorblog.jp/
窮地を脱した信長はすぐに態勢を立て直し、織田・徳川連合軍を率いて近江に侵攻。
朝倉・浅井連合軍は姉川で迎え撃つことになったが、義景は総大将を朝倉景健に任せていた。
この姉川の戦いは、朝倉軍が徳川軍に側面を突かれれたことで朝倉・浅井連合軍は総崩れとなり、信長の近江進出を許すこととなった。
その後、義景は信長が摂津国に出兵している隙に出陣し、信長の弟・信治と森可成を討ち取るなど反撃を見せる。
そして義景は信長が引き返してくると、比叡山に立て籠もって織田軍と対峙することとなった。
この時、信長は日時を決めて決戦を求めてきたが義景は無視。
やがて足利義昭や朝廷の調停もあって、義景は信長と講和することになった。
元亀2年(1571)、信長が越前と近江間の交通を遮断。
一方、義景も本願寺顕如と和睦し、浅井長政と共に織田領を攻撃したものの敗退した。
滅亡へ
元亀3年(1572)、信長が浅井氏の本城・小谷城を包囲。
義景は救援のために出陣したが、有力家臣が信長方に寝返ったために積極的な攻撃はしなかった。
この時、信長は再び日時を決めての決戦を求めているが、またもや義景は無視している。
やがて武田信玄が西上作戦を開始すると、信長が岐阜に撤退。
ここにきて義景は打って出ることにしたが、織田方の羽柴秀吉に反撃をくらい、部下の疲労と積雪を理由に越前へと撤退。
義景は信玄から失望され、激しい非難の手紙を送りつけられている。
元亀4年(1573)、義景は信玄、顕如から再出兵を求められたが動かなかった。
そして信玄が病死して武田軍が甲斐に引き揚げると、信長は朝倉氏討伐に主力を向けた。
義景はこれを迎え撃とうと出陣したが、暴風雨の最中の信長の奇襲により、朝倉軍は敗北。
そして越前へ撤退するところ、織田軍の猛追撃を受けて壊滅的な被害を受けてしまった。
義景は本拠・一乗谷に命からがら戻るものの、守兵の多くが逃走していたため、従兄弟の朝倉景鏡の勧めで一乗谷を放棄。
しかし、この景鏡が信長と通じて裏切り、義景は襲撃を受けて自刃した。享年41。
義景の死後、朝倉一族は信長の命を受けた丹羽長秀によって殺害されて滅亡。
義景の首は京で獄門に曝され、浅井久政・長政の首と共に金箔を塗られたドクロにされている。
出典:https://ameblo.jp/sengoku-busyou-asiato/
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