大河ドラマ「麒麟がくる」
斎藤道三(利政)
大河ドラマ「麒麟がくる」で本木雅弘が演じるのが、一代で油売りから成り上がって美濃一国を手中に治めた下克上の代表格「斎藤道三(利政)」。
しかし近年の研究では、美濃の国盗りは父とされる長井新左衛門尉(別名:法蓮房・松波庄五郎・松波庄九郎・西村勘九郎正利)と斎藤道三の2代にわたるという説が有力になっており、今回の大河ドラマ「麒麟がくる」でも『一介の油売りだった亡き父とともに親子二代で美濃の国盗りを目指す』とあるように、最新の研究による「親子2代国盗り説」が採用されるようです。
このため、今回は通説として語られてきた斎藤道三の国盗り一代記を、新説を元にして父子2人に分割し、簡単に斎藤道三の生涯について紹介していきたいと思います。
斎藤道三(利政)の父・長井新左衛門尉の下克上
斎藤道三とその父の生年、出身地については今もハッキリ分かっていない。
しかし、父は牢人で京都に住んでいたといわれ、京都妙覚寺で法蓮房の名で僧侶となっていたという。
その後、還俗して松波庄五郎と名乗った父は美濃に移り、油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとって『山崎屋』の屋号で油商人となった。
油を一文銭の穴に通して注ぐという芸で評判になっていた松波庄五郎であるが、ある日「芸に注ぐ力を武芸に生かせば、立派な武士になれるのに惜しいことだ」と客から言われて一大決心。
すぐに商売をやめて武芸に励み、松波庄五郎は達人の域に達したという。
その後、松波庄五郎はコネを使って美濃小守護代・長井長弘の家臣となることに成功。
松波庄五郎は長井氏の家臣である西村氏の家名を継いで西村勘九郎(正利)と名を変えた。
やがて西村勘九郎は鍛え上げた武芸と、類まれな才覚で長井家中で頭角を現し、ついには美濃守護・土岐家の次男・土岐頼芸に取り入ることに成功する。
しかし、この土岐頼芸が兄・政頼(頼武)との家督争い敗北する事件が発生してしまう。
すると西村勘九郎は土岐頼芸のために策を講じ、政頼を急襲して越前へ追放する活躍を見せて、絶大な信頼を勝ち取った。
次に西村勘九郎が画策したのは、同じく土岐頼芸の信任を得ていた長井長弘の排除だった。
長井長弘殺害が事実ではないとの説もあるが、結果的に西村勘九郎は長井氏の乗っ取りに成功。
西村勘九郎は名を長井新左衛門尉と改めることとなった。
出典:https://nobunaga-yabou.blog.so-net.ne.jp/
斎藤道三(利政)の下克上
斎藤道三は父が長井新左衛門尉と名を改めた頃に家督を譲られ、長井新九郎(規秀)を名乗っていたといわれる。
天文4年(1535年)、美濃国は越前に追放されていた土岐政頼の嫡男・頼純が反撃を開始し、長井新九郎は主君・土岐頼芸と共に戦った。
天文7年(1538年)、美濃守護代・斎藤利良が病死したため、長井新九郎は名跡を継いで斎藤新九郎(利政)を名乗り、主君に対して牙をむき始めた。
天文10年(1541年)、斎藤利政が土岐頼芸の弟・頼満を毒殺したのをきっかけに、二人は戦闘状態へと突入。
その後、一時的に追い詰められることもあったものの斎藤利政は、天文11年(1542年)に土岐頼芸とその子・頼次を尾張へ追放し、美濃国を実行支配することとなった。
しかし、美濃復帰を目指す土岐頼芸が尾張の織田信秀の援助を得ると、斎藤利政はその対応に追われた。
さらに土岐頼芸は越前に追放されていたかつての敵・土岐頼純とその庇護者である朝倉孝景とも連携を結んだため、斎藤利政は劣勢に立たされ揖斐北方城を奪われてしまった。
天文16年(1547年)、織田信秀が美濃攻略のため大軍勢と率いて稲葉山城に襲来。
しかし、斎藤利政はこの籠城戦で織田軍を壊滅寸前にまで追い込む。
また、この年に土岐頼純が病死し、揖斐北方城の土岐頼芸は孤立無援となった。
これを受けて斎藤利政は織田信秀と和睦し、天文17年(1548年)には娘・帰蝶を信秀の嫡子・織田信長に嫁がせる。
この時、「うつけ者」と呼ばれていた信長は多数の鉄砲隊、美濃兵より長い槍隊を引き連れていた。
さらに会見時に信長はうつけ姿ではなく、正装で現れたため斎藤利政は大いに驚き、「美濃はいずれ信長のものになる」と家臣たちに予言したという。
この和睦によって織田家の支援を失った反斎藤勢力は急速に力を弱め、斎藤利政は天文21年(1552年)に揖斐北方城の土岐頼芸を再び尾張へ追放して美濃国を完全平定した。
斎藤道三(利政)の最期
天文23年(1554年)、斎藤利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り、自らは斎藤道三と号して鷺山城に隠居した。
しかし、斎藤道三は義龍よりも、その弟たちを可愛がっており、義龍の廃嫡を考え始めた。
斎藤道三が義龍を嫌った理由としては、義龍の生母・深芳野がもともと土岐頼芸の愛妾だったため、斎藤道三がもらい受けた際にすでに懐妊していたと疑いがあり、実子ではなく土岐頼芸の子だと思っていたからだという説がある。
やがて斎藤道三と義龍の対立が表面化すると、弘治元年(1555年)に義龍が弟達を殺害して挙兵。
この時、旧土岐家家臣団はこれまでの国盗りの経緯から、斎藤道三に味方する者はほとんどいなかった。
そして弘治2年(1556年)、娘婿・織田信長の援軍も間に合わず、斎藤道三は戦死。享年63であった。
斎藤道三は日頃より義龍は「無能」だと評していて、戦いの直前にも信長に美濃を譲り渡すという遺言書を書いていた。
しかし、長良川の戦いにおける義龍の見事な采配を見た斎藤道三は評価を改め、後悔したといわれる。
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