大河ドラマ麒麟がくる
織田信勝
大河ドラマ麒麟がくるでは、染谷将太が演じる織田信長の弟として「織田信勝」が登場してきます。今回の大河ドラマ序盤では信長の若かりし頃の姿、尾張国統一に向けて苦心する姿が詳細に描かれており、この「織田信勝」は特に信長の敵対勢力として重要な役割を果たすことでしょう。それでは『うつけ』と呼ばれた兄とは正反対の優等生として描かれることが多い反逆の弟「織田信勝」について簡単に紹介していきます。
出典:http://niwareki.doorblog.jp/
織田信勝(?~1558)
兄弟の確執
織田信勝は尾張国守護代の「織田大和守家」の家臣である「織田弾正忠家」の当主・織田信秀の三男として生まれました。
母は信秀の正室・土田御前。すぐ上の兄には織田信長がいました。
津島、熱田を支配下においた「織田弾正忠家」の織田信秀は経済力を武器に尾張国内をまとめ、主家「織田大和守家」を凌ぐほどの勢力を拡大しましたが、美濃・三河などの他国との戦には敗退を繰り返し、徐々に支配体制は揺らぎつつありました。
このため信秀は天文18年(1549)に居城の末森城を拠点にしつつ、那古野城主だった信長にも政務を担当させ、親子二元体制で尾張国の支配力を保とうとしました。
しかし、その後に信秀が病気がちになると、信勝が代わりを務めて末森城で政務を執るようになり、兄弟による統治体制に変化していきます。
天文21年(1552)、信秀が死去すると、信勝はそのまま末森城主となり、柴田勝家ら「織田弾正忠家」の重臣たちが信勝を助けていきました。
父の葬儀では仏前で抹香を投げつけた信長とは対照的に、信勝は正装をして礼儀正しく振舞っていたといわれ、やがて二人は商業地である熱田の権益を巡って小競り合いようになります。
挙兵と赦免
天文23年(1554)、信長が守護代の「織田大和守家」を滅ぼしたのとほぼ同時期、信勝は「弾正忠」を名乗って自分が「織田弾正忠家」の当主であることをアピールしました。
これに対して信長は守護の子・斯波義銀を擁立し、兄弟二人の対立は「織田弾正忠家」の覇権争いへと発展していきました。
弘治2年(1556)、信長の強力な支援者だった美濃の斎藤道三が戦死すると、道三を討った息子の斎藤義龍は信長の敵対勢力を支援していきます。
これを好機とみた信勝は林秀貞・林美作守・柴田勝家らと共についに信長に対して攻撃を開始。
しかし、この戦いは信長の前に柴田勝家が敗走し、林美作守は討死、信勝軍は完全敗北を喫してしまいます。
敗走した信勝は末森城に籠り、迫りくる信長軍に対抗しようとしましたが、このときは母・土田御前の取りなしによって信勝、林秀貞、柴田勝家は赦免となりました。
この敗北以降、信勝は「弾正忠」を名乗らなくなり、尾張国における影響力を失いましたが、その後も信勝は信長に敵意を持ち続けていきました。
裏切りと裏切り
永禄元年(1558)、信勝は信長と敵対する岩倉城の織田信安と通じて謀反を計画します。
すると信長が病気になったとの報を受け、清洲城に見舞いに行った信勝は河尻秀隆(池田恒興とも)によって暗殺されてしまいました。
このとき、信長は仮病を装っていましたが、これを疑った信勝は事前に重臣・柴田勝家に相談していました。
しかし、すでに柴田勝家は信長によって調略されており、信勝には「病気を理由に家督を譲るよう迫ればよい」と見舞いに行くことを勧めたといいます。
また、信勝は信長を謀殺しようと清須城に行ったものの、柴田勝家の密告で信長に準備万端で待ち受けられ、返り討ちにあって信長の目の前で自刃したともいわれます。
この事件ののち、信長は勢力を飛躍的に拡大させ、尾張国の大半を支配することとなりました。
ちなみに信勝の子・坊丸(のちの津田信澄)は助命されて、織田家の有力部将として活躍しましたが、本能寺の変に際に謀反を疑われ、信長の三男・信孝に討たれています。
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