大河ドラマ「麒麟がくる」
妻木煕子(つまきひろこ)
大河ドラマ「麒麟がくる」で木村文乃が演じるのが、のちに明智光秀の妻となるこの大河のヒロイン・妻木煕子(つまきひろこ)。
正妻以外に側室を持つことが普通だった戦国時代に光秀はこの煕子だけを生涯愛し続けたといわれ、煕子もそれに応えるのように愛溢れるエピソードを残していました。
この記事では、光秀との純愛を大河ドラマの中でもイヤになるぐらい見せつけてくるであろうw、妻木煕子(つまきひろこ)について簡単に紹介しています。
妻木煕子(つまきひろこ)
妻木煕子は享禄3年(1530年)頃に妻木範熙の長女として生まれたといわれ、明智光秀の正室となった女性である。
しかし、「煕子」という名前は後世の小説で知られるようになった名で、以前は「お牧の方」や「伏屋姫」が光秀の妻としての名は通っていた。
才色兼備と謳われていた煕子は光秀との結婚直前に疱瘡にかかり、左頬にその痕が残ってしまった。
このため、父は妹を替え玉にして嫁がせようとしたが、光秀はこれを断り「煕子こそ終生の妻だ」と言って煕子を娶り、言葉通りに生涯側室を持たなかったという。
弘治2年(1556年)、明智家が従っていた斎藤道三がその息子・義龍に討たれた。
この時、義龍の別動隊によって明智城も落城し、妊娠中の煕子は光秀に背負われて越前へ共に逃亡したといわれている。
二人の子には、女子に明智秀満に嫁いだ長女、明智光忠に嫁いだ次女、細川忠興に嫁いだ三女・細川ガラシャ、織田信澄に嫁いだ四女がおり、男子には嫡男の十兵衛光慶(幼名:千代寿丸)、次男の十次郎光泰、三男に乙寿丸がいたという。
やがて、逃亡先の越前で朝倉義景に仕えた光秀であったが、その生活は苦しかった。
そんな中、文化人としても優れていた光秀は連歌会の催しを担当することになる。
この時、光秀が酒宴にかかる費用に頭を悩ませていると、見かねた煕子が光秀に内緒で自分の黒髪を売り、その費用を工面したという。
また、天正4年(1576年)に煕子が病気になった際、光秀は平癒の祈祷を依頼するなど、夫婦仲は非常に良かった。
煕子は同年に重病となった光秀の看病疲れが元で病死したともいわれるが、一説には天正10年(1582年)の本能寺の変後まで生き抜き、坂本城落城のときに48歳で死去したともいわれている。
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