麒麟がくる|細川藤孝・幽斎(眞島秀和)文武両道のエリートは世渡り上手な戦国のミスターパーフェクト

   

大河ドラマ「麒麟がくる」
細川藤孝(幽斎)

大河ドラマ「麒麟がくる」で眞島秀和が演じるのが、激動の戦国時代をおそらく一番うまく渡り切った細川藤孝(幽斎)。

細川藤孝(幽斎)は「麒麟がくる」の主人公である明智光秀とは、上司と部下、親友でライバル、親戚で敵といった様々な関係性を持っており、大河ドラマの物語でも最も重要な人物として登場してきます。

また、キャストの眞島秀和さん。失礼ながら私はよく知りませんが、この「麒麟がくる」を通じて大ブレイクしそうな予感もします。

この記事では、文武両道のエリートで世渡りも上手な戦国時代のミスターパーフェクト・細川藤孝(幽斎)について簡単に紹介します。

 

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細川藤孝(幽斎)

細川藤孝は天文3年(1534年)、和泉守護・細川元有の子で三淵家の養子となっていた三淵晴員の次男として京都東山に生まれた。幼名は萬吉。

母は智慶院というが、一説によると智慶院は将軍・足利義晴の子を宿したまま三淵晴員に嫁いだため、細川藤孝は足利義輝、義昭の兄にあたるともいわれる。

天文9年(1540年)、萬吉は7歳で伯父・細川元常の養子となり、天文15年(1546年)に将軍・足利義藤(のちの足利義輝)の偏諱を受け、細川藤孝を名乗った。

細川藤孝は幼い頃より英才教育を受けており、剣術等の武芸、和歌・茶道・連歌・蹴鞠等の文芸を極め、さらには囲碁・料理・猿楽などにも通じた、超エリートだった。

成長した細川藤孝は将軍・義輝に仕えたが、永禄8年(1565年)に義輝が三好三人衆に討たれると、義輝の弟・一乗院覚慶(のちの足利義昭)を兄の三淵藤英と協力して救出し、義昭を将軍にするため越前国の朝倉義景を頼り、上洛を勧めた。

しかしこの頃、朝倉義景は一向一揆に頭を悩ませており、跡継ぎの早世も重なって気落ちして細川藤孝らの誘いに乗ろうとしなかった。

このため、細川藤孝は明智光秀を通じて尾張国の織田信長を頼ることとなった。

永禄11年(1568年)、天下布武を掲げ、急速に勢力を拡大させた信長は義昭を奉じて入京。

細川藤孝は信長に従い、勝竜寺城を三好三人衆・岩成友通から奪還し、その後も大和国や摂津国を転戦して義昭を将軍に就かせることに成功した。

 

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しかし、その後義昭と信長の関係は徐々に悪化し始めると、元亀4年(1573年)に細川藤孝は義昭を見限り、信長に恭順の姿勢を示した。

義昭の動きについては、細川藤孝から信長に伝えられていたという。

ちなみに細川藤孝の裏切りを許せなかった兄・三淵藤英は、勝竜寺城の襲撃を企てたが失敗に終わっている。

やがて、義昭が追放されると細川藤孝は山城国長岡を与えられ、名字を改めて長岡藤孝と名乗った。

その後も細川藤孝は信長の武将として畿内各地を転戦し、天正5年(1577年)に反旗を翻した松永久秀の籠る信貴山城を明智光秀と共に落とした。

 

天正6年(1578年)、信長の薦めによって嫡男・忠興と光秀の娘・玉(ガラシャ)が結婚。

細川藤孝は光秀の協力を得て丹後国を平定し、丹後南半国の領有を認められて宮津城を居城とした。

天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、細川藤孝は光秀の再三の協力要請を断固として断り、剃髪して隠居、忠興に家督を譲った。

そして細川家から協力を得られなかった光秀は山崎の戦いで敗死することになった。

 

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その後も細川幽斎は光秀を討った羽柴秀吉に重用され、武将として各地を転戦して天下統一事業に貢献した。

また、一流の文化人でもあった細川幽斎は千利休らと共に秀吉の側近としても優遇された。

一方、細川藤孝は徳川家康とも茶会などを通じて親交を深めており、慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると細川家は家康に接近した。

 

慶長5年(1600年)、嫡男・忠興が家康の上杉征伐に従い、軍勢を引きつれて会津に向かった。

すると、畿内では石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、細川幽斎は15,000の大軍に包囲された。

残された500の兵で城に籠った細川幽斎に対し、包囲軍は細川幽斎の歌道の弟子も多かったため士気が上がらず、この戦いは長期化。

この状況に弟子の一人・八条宮智仁親王が双方に講和を働きかけたが、細川幽斎はこれを謝絶して籠城戦を継続する。

すると、ついに八条宮智仁親王の兄・後陽成天皇が勅使を遣わし、関ヶ原の戦いの直前に勅命によって講和が結ばれた。

当時、細川幽斎は古今伝授(古今和歌集を解釈する秘伝)の唯一の伝承者であり、天皇は古今伝授が途絶える事を恐れて細川幽斎を助けたといわれる。

この講和によって細川幽斎は城を明け渡したが、関ヶ原の戦いで嫡男・忠興が活躍したため、細川家は豊前小倉藩39万9,000石を与えられた。

そして細川幽斎は京都で悠々自適な晩年を送り、慶長15年(1610年)に死去した。享年77。 

 

出典:https://www9.atwiki.jp/

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