大河ドラマ麒麟がくる
土岐成頼
大河ドラマ「麒麟がくる」の序盤の舞台は室町時代末期の美濃国。明智光秀は斎藤利政(道三)に仕える明智家の一門として物語が始まります。美濃国は代々にわたって守護である土岐氏が支配していましたが、幕府の衰退と共に土岐氏の力は陰り、新しい勢力として台頭してきたのが斎藤利政(道三)でした。
土岐氏が美濃国において力を失ったのは、幕府権威の失墜だけでなく、一族間の熾烈な争いによるところが大きいものがあり、ここでは大河ドラマ「麒麟がくる」以前の土岐氏がいかにして名前だけの君主となっていったのかについて、大河ドラマに登場する土岐頼芸の祖父・土岐成頼の代から紹介していきます。
土岐成頼(しげより)
土岐成頼は嘉吉2年(1442)に足利氏一族の一色義直の弟・義遠の子として生まれたとされますが、他にも土岐氏の支族の子、佐良木光俊の子などの説もあり正確には分かっていません。
康正元年(1455)、美濃守護・土岐持益は、嫡男の持兼が早世したために孫の亀寿丸(持兼の庶子)を後継ぎに考えました。
しかし、この頃すでに実権を握っていた美濃守護代・斎藤利永は「幼君では不安」と反対し、持益を隠居させて一色家から成頼を迎えて守護の座に据えました。
応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こると成頼は西軍に属し、兵8,000率いて京に留まりました。
守護留守中の美濃国は守護代・斎藤妙椿(利永の弟)が守っていましたが、美濃の有力国人たちは相次いで東軍側についたため、斎藤妙椿はこれを利用して敵を思わしき者の領地を難癖をつけて強引に没収しました。
これで支配体制を固めた斎藤妙椿の影響力は伊勢、近江、飛騨まで広がり、成頼を操って西軍を動かすほどの存在になったといいます。
文明9年(1477)、応仁の乱が講和になると、成頼は西軍の名目上のトップだった足利義視・義材親子を庇護して美濃に帰国しました。
また、この他にも多くの文化人が京から美濃に流れたため、美濃国は当時最先端の文化を吸収することになりました。
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文明12年(1480)、斎藤妙椿が死去すると、2人の甥・斎藤利藤と斎藤妙純の間で後継者争いが起こり、勝者となった斎藤妙純はさらに美濃国の専横を強めていきます。
一方、成頼は長享元年(1487)に第9代将軍・足利義尚による六角高頼征伐が始まると、次は自分が狙われると考えました。
このため成頼は兵を集め、美濃山中に立て籠もりましたが、結局は義尚が死去したことで何も起こることはありませんでした。
明応3年(1494)、成頼は嫡男・政房を廃嫡し、溺愛する四男・元頼に家督を譲ろうとします。
しかし、これに斎藤妙純が反対し、政房を推して成頼に隠居を迫りました。
成頼は斎藤妙純の家臣で「小守護代」と呼ばれた石丸利光や斎藤妙純に追放されていた斎藤利藤と共に『元頼派』を形成して争いましたが、斎藤妙純の前に敗れ、家督は政房に譲られました。
隠居後「宗安」と名乗った成頼は、明応6年(1497)に死去、享年56。
土岐成頼の子・政房の記事に続く↓
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