大河ドラマ西郷どん(せごどん)
西郷菊次郎
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で二階堂ふみが演じる「愛加那(とぅま)」と西郷の間に生まれた西郷菊次郎。
幸せな奄美大島での生活を捨てて、薩摩に戻ってしまう西郷吉之助(隆盛)は、この菊次郎も奄美大島に置いていってしまいます。
今回は、西郷隆盛の長男とされる西郷菊次郎のその後の生涯について、簡単に紹介していきます。
西郷菊次郎
西郷菊次郎は、奄美大島に潜居していた西郷隆盛と愛加那(とぅま)の長子として、万延2年(1861)に奄美大島の龍郷で生まれました。
父・西郷隆盛は罪人として奄美大島に送られていたわけではなく、あくまで幕府の目から逃れるため潜居という形で奄美大島に来ていたため、藩からはちゃんと手当てが支給されていました。
また、母・愛加那は、奄美大島の名家・龍家の遠戚にあたり、それなりの教養は身につけていたといいます。
西郷隆盛は「菊池源吾」と名を変え、龍郷の借家で暮らし、弟の西郷吉二郎からも品物が届くなど普通の暮らしを営んでおり、島のために藩の役人と掛け合うなど島人から信頼されていました。
そんな西郷は愛加那と結婚した2年後に菊次郎をもうけました。
「菊」の字は西郷の島での名「菊池源吾」からとったもので、 「次郎」としたのは、以前に西郷は藩の密命を受けて台湾を偵察していた際に、当地の女性が西郷の子を産んでいるからだといいます。
菊次郎の誕生に合わせて西郷は龍郷の新居に引っ越しましたが、翌日に藩から召喚命令が届いて薩摩に帰ることになります。
当時、島での家族を薩摩に連れて帰ることができなかったため、幼い菊次郎は愛加那と共に奄美大島に残されました。
2カ月後、西郷は罪を咎められて徳之島に流されたため、愛加那は菊次郎と生まれたばかりの娘・菊草を連れて徳之島へ渡りますが、すでに西郷には沖永良部島への「遠島」命令が出されていて会うことはできまでんでした。
奄美大島に戻った愛加那親子の面倒は、赤山靱負の弟・桂久武らが見ていたといいます。
1年半後、西郷は再び藩命によって召喚され、沖永良部島を発つと奄美大島の龍郷に寄り、3泊4日を愛加那、菊次郎、菊草たちと過ごします。
これが父と母にとっては今生の別れとなり、菊次郎はその後も9歳になるまで愛加那と共に奄美大島で暮らしました。
その後、元治2年(1865)に西郷は岩山糸と結婚すると、龍郷の島役人に手紙で家族が世話になっている礼を述べ、菊次郎をお渡しくださいと頼んでいます。
理由は分かりませんが、この時、菊次郎が父のもとには行くことができませんでした。
明治維新が成ったあと西郷は隠居するつもりでしたが、薩摩藩主・島津忠義に請われ、藩の参与に就任します。
この時も西郷は龍郷の島役人に奄美大島に行くことができなくなったことを手紙で詫び、愛加那たちが世話になっていることに厚く礼を言っています。
そして菊次郎は9歳になったとき、ついに鹿児島の西郷本家に引き取られ、西郷は菊次郎を連れて東京に赴任します。
その後、東京で活躍する西郷のもとで12歳になった菊次郎は、2年半の間アメリカへ留学しました。
帰国して3年後、17歳になった菊次郎は、父が起こした西南戦争に薩軍の一員として参戦します。
この戦いで右足に銃弾を受けた菊次郎は膝下を切断。
そして菊次郎は西郷家の下男・永田熊吉に背負われて、隆盛の弟である政府軍の西郷従道のもとへ投降しました。
この菊次郎の投降に従道は喜び、命を救ってくれた熊吉に礼を言ったといいます。
明治13年、菊草(17歳)が大山誠之助と結婚すると、菊次郎は奄美大島で一人になってしまった母・愛加那と暮らしました。
4年後、菊次郎は外務省に入省が決まり、母を残して奄美大島を離れ、東京のアメリカ公使館などで勤務。
明治20年には再びアメリカへの留学し、日清戦争で日本が台湾を得ると台湾に赴いて4年半もの間、重職を歴任するなど、政府の中でもかなりのポストについていきます。
菊次郎は台湾に赴任する際、母を訪ねて奄美大島に立ち寄り、台湾でも兄にあたる隆盛の子・呉意を探し出して「兄」として歓待するなど、父以上に家族思いの人物でした。
日本に帰国後、菊次郎は京都市長となって「京都百年の大計」として発電、上下水道整備、市電設置の京都三大事業を推進。
明治44年に右足後遺症を理由に京都市長を辞職すると鹿児島県に帰郷し、昭和3年に自宅で心臓麻痺により死去しました。享年67。