大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」
山城屋事件
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第41話、大久保利通らが渡欧している間、留守を預かる後藤象二郎や江藤新平ら土佐、肥前の者たちは、政府の主導権を薩長出身者から奪おうと人事の一新を主張します。
西郷隆盛は「勝手は許されない」とこれを突っぱねますが、後藤らを後押しするように元長州藩士・山縣有朋の汚職事件が発覚。
これによって後藤たちの発言権は増し、西郷隆盛も山縣有朋の辞任を決断せざるを得ない状況となっていきました。
この記事では、山縣有朋が起こした長州出身者による汚職事件「山城屋事件」について簡単に紹介しています。
山城屋事件
山城屋事件は、明治5年(1872)に陸軍省の御用商人山城屋和助が、陸軍省から無担保で借り受けた公金を返済できずに自殺した事件。
山城屋和助は長州出身者で、政府内部にいた同郷のツテで御用商人となり、軍需品を納めていた人物だった。
明治4年(1871)、陸軍省は保管していた銀の価格低下を受け、資金運用を理由に山城屋和助に公金を貸し出した。
この金を持って山城屋和助は生糸相場に手を出したが、相場の暴落にあって投機は失敗。
しかし、山城屋和助は更に陸軍省から金を借り、フランスの商人と直接取引をするためフランスに渡った。
その後、外務省に「フランスで一人の日本人が豪遊している」との情報が入り、政府が調査を開始すると無担保で多額の陸軍省公金が貸し付けられていたことが発覚する。
このため長州出身者で陸軍中将軍、近衛都督の地位にあった山縣有朋は、薩摩系軍人・桐野利秋(中村半次郎)から激しく追及されることとなった。
やがて山縣有朋は辞任することになったが、山城屋和助が借りた公金は総額約65万円、当時の国家歳入の1%という途方もない額であり、これを問題視した司法省の江藤新平らはさらに本格的な調査を行うこととする。
すると山縣有朋から至急返済を求められた山城屋和助は、明治5年(1872)に陸軍省内部で割腹自殺。
この時、関係する帳簿などを焼き払ったため、事件の真相は闇の中に葬られてしまった。
桐野利秋は山縣が推進する「徴兵令」に反対していたが、同じ反対派にまわると思っていた西郷隆盛が山縣を評価して「徴兵令」の実施を支援したため、嫉妬を抱いて山縣をひどく嫌っていたという。
事実、山縣の辞任には西郷隆盛が最後まで反対し、辞任後も岩倉使節団の一員として渡欧していた大久保利通に対して山縣を擁護出来なかったことを詫びる手紙を送っている。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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