大河ドラマ西郷どん(せごどん)
長野主膳
大河ドラマ西郷どん(せごどん)第11話、篤姫を輿入れさせるために江戸城で阿部正弘と共に将軍・徳川家定に対面した島津斉彬は、対立する井伊直弼と廊下で出くわします。
篤姫に嫁がせて将軍に近づこうとする斉彬に、井伊直弼は「お体には気をつけて」と意味深な発言をしています。
この時、井伊直弼の隣にいるのが長野主膳で、のちにこの男は磯田屋でお面をかぶった男を雇って橋本左内たちを襲撃します。
かなり悪役の印象で描かれる長野主膳ですが、実際は学問や公家との交渉でのし上ってきた井伊直弼の懐刀。
今回は、参謀・長野主膳の生涯について簡単に紹介します。
長野主膳
長野主膳の出自は、伊勢国飯高郡の住人である長野次郎祐の弟であること以外、何も分かっていない。
天保12年(1841年)に滝野次郎左衛門の妹・瀧女と結婚し、長野夫婦は各地を転々としていた。
長野主膳は近江国で国史、和歌などを教授しはじめると、天保13年(1842年)に彦根に出て井伊直弼を訪ねた。
その後、井伊直弼を弟子として迎えた長野主膳は、京都で井伊家とは格別な関係あった九条家に仕え、公家たちと交際を結ぶ。
やがて井伊直弼が彦根藩主を継ぐと、長野主膳は招聘されて藩校・弘道館国学方となった。
藩政改革にも協力し、井伊直弼からの厚い信頼を得た長野主膳は、一橋派と南紀派による将軍後継者争いが起こると京都に赴き、公家たちへ裏工作を行って南紀派の勝利に貢献。
さらに、安政の大獄では一橋派や尊皇攘夷派志士の処罰などを進言し、長野主膳は井伊直弼と共に恨まれる存在となっていく。
桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後も長野主膳は、彦根藩の藩政に関わっていたが、後を継いだ藩主・井伊直憲から疎まれた。
そして文久2年(1862年)の島津久光上京による「文久の改革」で井伊家は問罪されると、長野主膳は藩命により斬首された。享年48歳。
彦根藩は10万石減封と藩祖・直政以来続く「京都守護」の地位を剥奪されたが、長野主膳に全責任を負わせて乗り切り、その後の政局にうまく対応して、いち早く新政府軍に加わることに成功する。