大河ドラマ麒麟がくる
土岐頼武(政頼)
大河ドラマ「麒麟がくる」の序盤の舞台は室町時代末期の美濃国。明智光秀は斎藤利政(道三)に仕える明智家の一門として物語が始まります。美濃国は代々にわたって守護である土岐氏が支配していましたが、幕府の衰退と共に土岐氏の力は陰り、新しい勢力として台頭してきたのが斎藤利政(道三)でした。
土岐氏が美濃国において力を失った原因である一族間の熾烈な争いは、第一弾の土岐成頼、第二弾で土岐政房の記事で紹介してきましたが、ここでは大河ドラマ「麒麟がくる」以前の土岐氏がいかにして名前だけの君主となっていったのかの第3弾として、大河ドラマに登場する土岐頼芸の兄である「土岐頼武」を紹介していきます。
土岐頼武(政頼)
土岐頼武は美濃国守護・土岐政房の嫡男として生まれた。正確な生年は分かっておらず、他に「政頼」という名もあります。
頼武の弟には頼芸がいましたが、父・政房は家督をこの頼芸に継がせようとしたために、美濃を二分する争いに発展します。
守護代・斎藤利良が主力となった『頼武派』に対し、小守護代・長井長弘や長井新左衛門尉(斎藤道三の父)が『頼芸派』を形成。
永正14年(1517)に両派は合戦になり、『頼武派』が勝利しました。
これにより、『頼芸派』は尾張に亡命していた前守護代・斎藤彦四郎と連絡を取って逆襲の機会を伺うことになります。
永正15年(1518)、再び両派は合戦になり、今度は『頼芸派』が勝利しました。
これにより、頼武は斎藤利良と共に朝倉氏が治める越前へ亡命しました。
この亡命中、頼武は朝倉家9代当主・貞景の娘と結婚したとされ、のちに子・頼純が生まれます。
永正16年(1519)父・政房が死去すると、朝倉家9代当主・孝景は義弟・頼武のために美濃出陣を決定します。
そして頼武は孝景の弟・朝倉景高が率いる3,000の兵に護られて美濃に入国し、『頼芸派』を打ち破って念願の「美濃守護」となりました。
大永5年(1525)、『頼芸派』の長井長弘が再挙兵し、合戦で負けた頼武は守護代・斎藤利茂らと共に館を脱出しました。
さらに『頼芸派』には長井氏支援のために近江・浅井亮政の軍勢が加わり、『頼武派』を追い詰めます。
堪らず頼武は朝倉氏に救援を要請すると、朝倉氏はこれに応じて名将・朝倉宗滴が総大将となり、六角氏と協力して浅井氏の本拠・小谷城を牽制、さらに朝倉景職が率いる別動隊が美濃に向かいました。
この内乱は大永7年(1527)に一旦落ち着きましたが、火種はくすぶったままでした。
享禄3年(1530)、『頼芸派』は再々挙兵し、頼武は再び越前に逃れました。
これにより、頼芸は守護職には就いていないものの「濃州太守」と呼ばれるようになりました。
『頼芸派』が勝利したことで長井氏は守護代・斎藤氏に替わって美濃の実権を握ることになりましたが、やがて主力だった長井長弘、長井新左衛門尉が相次いで死去。
『頼芸派』は長井新左衛門尉の子・長井規秀(のちの斎藤道三)が重用されていきました。
その後、頼武は朝倉氏の援助で美濃に戻り、大桑城に本拠にして再び『頼芸派』と争います。
天文4年(1535)、頼芸が父の17回忌法要を行って行正当性を主張すると、頼武は奈良正倉院の蘭奢待の切り取りを権威上昇のために行いました。
ちなみに歴史上、蘭奢待を切り取った記録があるのは、足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武、織田信長、明治天皇らだけです。信長などは許可なく切り取っていますが、頼武はちゃんと朝廷に申請し、許可をもらって切り取っています。
天文5年(1536)、頼芸が勅許により「美濃守」となり、正式に守護の座に就きましたが、その後も『頼武派』は朝倉氏や六角氏の支援で『頼芸派』を攻撃し、美濃国の内乱は広範囲に拡大していきました。
一方、当事者であるはずの頼武は、内乱の最中にいつの間にか死去しており、『頼武派』は土岐と朝倉の血を引く頼武の子・頼純を擁立し、新たに『頼純派』として戦っていくことになります。
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