大河ドラマ西郷どん(せごどん)
岩倉具視
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で貧乏公家として登場するのが笑福亭鶴瓶が演じる「岩倉具視」。
岩倉具視は倒幕を成し遂げた功労者として、また明治新政府では最高権力者として活躍する人物です。
しかし、西郷隆盛や坂本龍馬ほどの派手さはなく、若干「悪」のイメージまで連想してしまうお公家さん。
この記事では、ややこしい話は一気にハショって「岩倉具視」について超簡単にまとめてみました。
岩倉具視
岩倉具視は、文政8年(1825)に下級公家・堀河康親の次男として生まれ、14歳で岩倉具慶にの養子となった。
幼名は「周丸」といい、公家らしからぬ容姿や言動から、「岩吉」と周りに呼ばれていた。
30歳で孝明天皇の侍従に取り立てられ、公武合体や和宮降嫁を推進して天皇から信頼されるも、尊王攘夷派志士からは佐幕派とみなされて失脚。
岩倉具視は出家してして5年間の蟄居生活を強いられるが、この間に密かに情報収集と分析を行い、倒幕派の薩摩藩と急接近した。
岩倉具視の前半生を詳しく
その後、岩倉具視は将軍・徳川家茂の死去、孝明天皇の崩御などの混乱の中で権謀術数の限りを尽くし、慶応3年(1867)に王政復古の大号令を発布して、徳川慶喜を追い詰めて明治新政府樹立に貢献する。
新政府では右大臣として政治の実権を握り、明治4年(1871)には特命全権大使として欧米諸国を訪問した。
欧米との実力差を身を持って感じた岩倉具視は、内政優先の必要性を感じ、帰国後に大久保利通らと共に西郷隆盛らの征韓論に猛反対。
これで西郷隆盛ら参議5人が辞職する事態となり、西南戦争などの不平士族の反乱が相次ぐことになった。
その後、大久保利通が暗殺されると、岩倉具視は伊藤博文に支えられ、近代天皇制の確立と明治憲法の制定に尽力。
明治16年(1883)に喉頭がんにより死去した。享年59。
岩倉具視は「維新前後には人には言えぬこともやったものだ」と漏らしており、明治天皇は岩倉具視の臨終の際に「父を殺したのはお前か?」と尋ねたという。
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