大河ドラマ西郷どん(せごどん)
岩倉具視の前半生
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で貧乏公家として登場する笑福亭鶴瓶が演じる岩倉具視。
ボロボロの格好で「金」をせがんでくるどうしようもない奴ですが、実は西郷吉之助の革命に向けた活動の中で重要な役割を果たしていく恐ろしいほどの策謀家。
この記事では、ほっそい目で時流を見極め、のちに明治維新の立役者の一人となっていく岩倉具視の半生を簡単にまとめました。
大河ドラマ西郷どんに登場するまでを中心にまとめてありますので、これでなぜ、岩倉具視は隠れ住んでいたのかが分かると思います。
なんでマロは貧乏なんや?
岩倉具視の前半生
①孝明天皇の信頼を勝ち取る!
岩倉具視は、文政8年(1825)に公卿・堀河康親の次男として生まれました。
幼名は周丸(かねまる)といいましたが、見た目や言動が公家っぽくなかったため、他の公家の子達には「岩吉」と呼ばれていたといいます。
天保9年(1838)、周丸は岩倉具慶の養子となり、師であった朝廷儒学者・伏原宣明から「具視」の名を与えられました。
養子縁組は、具視が大器であると見抜いた伏原宣明が岩倉家に推薦したものでした。
しかし、この岩倉家は朝廷内において身分が低く、朝議(朝廷の会議)でも発言権はおろか、出席すら難しい立場でした。
そんな中、嘉永6年(1853)に関白・鷹司政通へ歌道入門したことがきっかけで岩倉具視に転機が訪れ、人材の育成と実力主義による登用を主張した朝廷改革の意見書を提出しました。
安政5年(1858)、幕府老中・堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るため上京しました。
これに関白・九条尚忠は勅許を与えるべきと主張しましたが、岩倉具視をはじめ多くの公家は反対の立場を取ります。
岩倉具視は大原重徳とともに反九条派を集めて猛抗議し、九条尚忠が病と称して面会を拒否しても九条邸に居座りました。
このような状況の中、孝明天皇は反対派の意見を取り入れ、幕府に対して勅許を下しませんでした。
さらにこの直後、岩倉具視は政治意見書を提出し、孝明天皇からの信頼を勝ち取ることになります。
②条約勅許問題、和宮降嫁で絶頂期へ
安政5年(1858)、幕府大老・井伊直弼が勅許がないまま日米修好通商条約を締結し、これに抗議した前水戸藩主・徳川斉昭や福井藩主・松平慶永らを謹慎処分します。
激怒した孝明天皇は、水戸藩に「戊午の密勅」を下して幕政改革を指示しますが、逆に井伊直弼の「安政の大獄」によって水戸藩を中心とした尊皇攘夷派は大弾圧を受けてしまいました。
岩倉具視は朝廷と幕府の関係が悪化することを良しとせず、 京都における「安政の大獄」の実行部隊であった京都所司代・酒井忠義などと会談して関係修繕に努めていきました。
その後「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺されると、幕府では公武合体派が力を握り始め、老中たちは孝明天皇の妹・和宮の将軍・徳川家茂への降嫁を求めました。
当初、孝明天皇、和宮とも拒否の姿勢でしたが、岩倉具視は『幕府側から話があったのは、権威が失墜していることを幕府自体が認識しているから、朝廷の威光を欲しがっている。国の危機を救うためには内乱を避け、今は公武一和を天下に示すべきである。国家運営は朝廷、執行には幕府があたるという体制を作るため、条約の破棄、攘夷を条件にして和宮の縁組は特別に許すべきである』と意見します。
この岩倉具視の意見を取り入れた孝明天皇は、和宮降嫁を認め、幕府側も攘夷は不可能だと感じつつも縁組は確約となりました。
文久元年(1861)、岩倉具視の手配で和宮は江戸に下り、岩倉具視も孝明天皇からの勅書を持って随行しました。
そして岩倉具視は江戸城で老中と面会し、いいがかりをつけて将軍・家茂の直筆で誓書を提出しろと命じます。
将軍が誓書を書かされるのは幕府開設以来、前代未聞の話であったため老中たちは困り果てましたが、結局、将軍・家茂は誓書を提出させられました。
岩倉具視は朝廷権力の高揚のためにいいがかりをつけ、まんまと成功させたわけです。
これに孝明天皇は大喜びし、岩倉具視を呼んで功を労いました。
③尊王攘夷派に追い落とされて失脚
文久元年(1861)、長州藩主・毛利慶親が朝廷主導の公武合体、現実的開国と将来的攘夷を唱えた「航海遠略策」を孝明天皇に献策し、朝廷から高い評価を受けました。
これに危機感を募らせた薩摩藩・島津久光は兵を率いて入京し、朝廷の威を借りて幕府に改革を訴えて徳川慶喜と松平春嶽の政治復帰を成功させます。
このような中、全国では尊王攘夷運動は高まりを見せるようになっていました。
岩倉具視は常に朝廷権威の高揚を第一にしてきましたが、和宮降嫁の賛成と都所司代の酒井忠義との交流から、尊王攘夷派志士から佐幕派とみなされました。
尊皇攘夷派は岩倉具視を排斥するため、朝廷に圧力をかけ、次第に岩倉具視は追い詰められます。
ついには、信頼されていた孝明天皇にまで佐幕派と疑われてしまい、辞官と出家を余儀なくされて朝廷を去ることになりました。
しかし、この岩倉具視の処分に攘夷論者の土佐藩士・武市半平太らは納得がいきません。
武市半平太らは岩倉具視が京都から退去しなければ、首を四条河原に晒すといった「天誅」の予告文まで送りつけます。
このため朝廷は追放令を出し、岩倉具視は行く場所がなくなってしまいました。
その後、岩倉具視は長男・具綱が用意した洛北の岩倉村に移り、約5年間の蟄居生活を送ることになります。
④隠棲生活から復活へ
元治元年(1864)、禁門の変が発生し、京都の長州藩を中心とする攘夷派が京都から追放されましたが、岩倉具視は許されず、そのまま岩倉村で暮らしていました。
しかし、世の中の情勢が変わり、薩摩藩や朝廷内の同志たちは、次第に岩倉具視のもとへ訪れるようになりました。
岩倉具視も意見書を書くなど政治的活動を行うようになり、薩摩藩との交流から思想がこれまでの公武合体から倒幕へと変わっていきます。
慶応2年(1866)、第二次長州征伐で幕府軍が苦戦を続ける中、将軍・徳川家茂が薨去します。
孝明天皇・中川宮朝彦親王らは、なおも戦闘の続行を主張しましたが、岩倉具視は長州藩との和解を主張。
朝廷の悪政を正すため、岩倉具視は薩摩藩の協力を得て、中川宮朝彦親王らを辞職に追い込みました。
そして、敗北を重ねた幕府の長州征伐軍は解散となりました。
朝廷では孝明天皇は側近を失い激怒していましたが、突如天然痘により崩御します。
この混乱した情勢の中での崩御には、岩倉具視による毒殺説まで囁かれました。
慶応3年(1867)、明治天皇が15歳で即位すると、新帝即位に伴う大赦によって禁門の変に関わった者が赦免となります。
岩倉具視はすぐに赦免となりませんでしたが、大政奉還で朝廷に政権が返上されたのち、晴れて赦免となりました。