大河ドラマ麒麟がくる
本能寺
大河ドラマ麒麟がくるでは第5話にして明智光秀、織田信長の運命の舞台「本能寺」が登場してきます。「え?ここで?本能寺?」と、この時点での登場に誰もが驚いてしまうところですが、実はこの「本能寺」は「本能寺の変」以前から戦国大名たちにとって重要な役割を果たした寺でもありました。この記事では、鉄砲と火薬の輸入代行を行い、大河ドラマ「麒麟がくる」でも明智光秀が事件以前に訪れることとなる「本能寺」について簡単に紹介していきます。
出典:https://jp.zekkeijapan.com/
本能寺
鉄砲、火薬の輸入代行
本能寺は応永22年(1415)、「本応寺」という寺号で日蓮宗(法華宗)の僧・日隆によって創建されました。
その後、日隆が法華経の解釈をめぐって妙法寺の月明と対立し、本応寺は破壊されて日隆は西へ逃れることとなりましたが、享永元年(1429)に研鑽を積んだ日隆が京に戻って本応寺を再建すると、土地の寄進を受けて「本能寺」と改め、足利将軍家にも保護されて多くの子院も有する大寺院となっていきました。
応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆たちの多くが日蓮宗門徒だったため、日蓮宗の信仰は京に浸透し、本能寺はますます繁栄を極めていきます。
天文5年(1536)、本能寺は延暦寺の僧兵によって焼失(天文法華の乱)したこともありましたが、本能寺8世になった日承の頃には広大な土地を得て伽藍が造営され、30を超える子院を有するようになりました。
その後、日承をはじめとする本能寺は地方への布教を積極的に行い、畿内、北陸、瀬戸内海沿岸部、さらに種子島まで広まっていきます。
そして本能寺は種子島に布教したことから鉄砲・火薬の入手を行うこととなり、多くの戦国大名と関係を深めることになっていきました。
本能寺の変
尾張の織田信長は日承に帰依し、本能寺を上洛中の宿所としていました。
しかし、天正10年(1582)に本能寺は明智光秀の軍勢に包囲され、信長の死と共に焼失。
本能寺の焼け跡には、その後光秀を破った信長の子・信孝によって光秀の首と胴、さらに光秀の兵3,000の首が晒され、信長への供養とされました。
また、信孝は焼け跡を信長の墓所とするようにも命じています。
その後、再建途中だった本能寺は天正19年(1591)に豊臣秀吉の命で現在の場所へと移転させられました。
本能寺は戦国大名との関係も深かったこともあり、江戸時代になっても多くの寄進を集め、寛永10年(1633)には末寺92を数える大寺院になっていたといいます。
その後も天明の大火、幕末の動乱時には禁門の変などで幾度も焼失しましたが、その度に再建されて現在の本堂は7回目の建立で、昭和3年(1928)に建てられたものとなっています。
大河ドラマ「麒麟がくる」あらすじ関連記事
下の記事では、大河ドラマ「麒麟がくる」のあらすじや登場する人物、キャスト、ゆかりの場所などを紹介しています。本編の予習、復習にお使い下さい。