大河ドラマ西郷どん(せごどん)
集成館事業とは
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で、西洋文明に興味を持つ島津斉彬。
斉彬はただ単に西洋文明に憧れていたわけではなく、日本が欧米諸国に対抗するために、欧米の優れた文明を取り入れてようとしていました。
今回は、そんな先見性を持つ島津斉彬が日本で先駆けて取り組んだ「集成館事業」について簡単に紹介します。
集成館事業
集成館事業とは、薩摩藩主・島津斉彬が推進した洋式産業の総称をいう。
島津斉彬がこの集成館事業を開始するに至ったのは、中国でのアヘン戦争などで欧米諸国がアジアの植民地化を進めていたため。
当時、鎖国下の日本にあっても「海国図志」などの書籍によって、海外情勢はほぼ正確に把握されており、日本人は清国の植民地化に衝撃を受けていた。
また薩摩藩でも琉球に異国船が度々来航していたために、島津斉彬は危機感を感じ「富国強兵と殖産興業」の藩政改革を行ったのである。
集成館事業では近代洋式工場群を建設し、製鉄・造船・ガラス(薩摩切子)・紡績・電信になどの事業が展開され、大砲製造から洋式帆船の建造なども行った。
島津斉彬の死後は、財政問題などから集成館事業は一時縮小され、薩英戦争で反射炉以外のほとんどが焼失したが、この戦争で薩摩藩は集成館事業の重要性を改めて認識し、集成館機械工場、鹿児島紡績所を建造するなど日本の近代化に貢献した。
反射炉とは?
集成館
集成館とは、鹿児島市の仙厳園に隣接して建てられた本格的な洋式工場群をいう。
欧米列強に対抗するため、島津斉彬によって設けられた反射炉・溶鉱炉・ガラス工場があった。
薩英戦争後で焼失したが、まもなく藩主・忠義によって再興され、明治時代には官有化された。
その後も集成館は、西南戦争では私学校の生徒に占拠されたり、再び島津家の所有となったり、時代に翻弄されて大正4年(1915年)に閉鎖となった。