大河ドラマ西郷どん(せごどん)
幾島(いくしま)
大河ドラマ西郷どんで、斎藤ゆきのゴタゴタで直前でキャストが入れ代わり、最終的に南野陽子が演じることになったのが幾島。
幾島は教育係として、薩摩弁を話す篤姫(於一)を厳しく指導していますが、後に篤姫(於一)に待ち受ける悲しい運命を知って言葉を失くしてしまいます。
しかし、幾島はそんな篤姫(於一)を誰にも負けない心身の持ち主にしようと薙刀の稽古で厳しく鍛え、自身も篤姫(於一)を守っていこうとします。
今回は、篤姫(於一)に信頼され、大奥の御年寄にもなった幾島について簡単に紹介します。
幾島役 南野陽子
幾島(いくしま)
幾島は、文化5年(1808年)に薩摩藩御側用人・朝倉孫十郎景矩と久保田藩士・阿比留軍吾の娘・民との間に生まれた。
姓は朝倉、名は糸。
当初は「藤田」と名乗り、島津斉宣の娘で近衛忠煕に嫁いだ郁姫に付いて京都の近衛邸で暮らしていた。
嘉永3年(1850年)、郁姫が亡くなると出家して得浄院と号し、忠煕に仕えながら郁姫の菩提を弔う。
その後、薩摩藩主・島津斉彬の養女・篤姫を忠煕の養女として13代将軍・徳川家定に嫁がせる事が決まり、得浄院は「幾島」と改名して篤姫に付いて、大奥に入るまでの間、教育係などを受け持った。
篤姫の輿入れにあたり、幾島も近衛家の家士・今大路孝由の養女となって篤姫と共に大奥に入ったという。
幾島は公家の養女として大奥入りしながらも、御年寄という大奥を取り仕切る強い権力を持つ職に就いた。
大奥での幾島は、江戸城と薩摩藩との情報連絡役としても行動し、西郷隆盛を通して連絡をとり、将軍継嗣問題や薩摩藩との連携に重要な役目を果たした。
その後、体調を崩した幾島は大奥を隠退するが、慶応4年(1868年)には大奥に戻って戊辰戦争時に天璋院(篤姫)の使者として討幕派の薩摩軍に交渉に出向き、江戸無血開城にも尽力したといわれている。
明治維新から2年後の明治3年(1870年)に6東京で死去。享年63歳。