大河ドラマ西郷どん(せごどん)
徳川斉昭(なりあき)
大河ドラマ西郷どんで、伊武雅刀が演じるのが激しい気性で「烈公」と呼ばれた徳川斉昭(なりあき)。
徳川斉昭は、自分の息子の一橋慶喜を次期将軍にするため、井伊直弼と激しく対立するブチギレお父さん。
島津斉彬とは気持ちを通じ合っている間柄ですが、なにぶん変わったお人のようで、西郷吉之助(隆盛)は斉彬のパシリで斉昭のところに行った際は、よく分からない対応をされて少々困惑気味です(笑)。
今回は、過激な行動の多い、ちょっとめんどくさい人・徳川斉昭について簡単に紹介します。
徳川斉昭役 伊武雅刀
徳川斉昭(なりあき)
水戸藩の第9代藩主。江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の父。
寛政12年(1800年)、水戸藩江戸小石川藩邸で第7代藩主・徳川治紀の三男として誕生。
初めは紀教と名乗り、藩主就任後に斉昭と名乗った。
長兄・斉脩は第8代藩主、次兄と弟は養子にいったが、三男の斉昭は斉脩の控えとして残された。
文政12年(1829年)に第8代藩主・斉脩が病になり、家老・中山信守らは養子を迎える動きを見せる。
しかし、学者や下士層は斉昭派を形成し、無断で江戸に上り陳情する騒ぎを起こす。
その後、斉脩の遺書が見つかり、斉昭が家督を継いだ。
藩主となった斉昭は、有栖川宮織仁親王の娘・登美宮吉子と結婚。
この斉昭はドスケベの上にド変態の性獣。生涯に37人の子供をもうけ、大奥にはセクハラ発言を繰り返し、長男の嫁にまで手を出したといわれる。
藩政では藩校・弘道館を設立し、下士層から広く人材を登用して藩政改革を実施した。
斉昭の改革は、全領検地、藩士の土着、藩校・弘道館建設のほか、大規模軍事訓練を実施したり、農村救済などもあった。
さらに西洋近代兵器の国産化を推進し、 蝦夷地開拓や大船建造の解禁なども幕府に提言。
幕末期に人材の少なかった徳川家では、唯一のカリスマ性と行動力を持ち合わせた人物として影響力は全国に及んだ。
このほか仏教抑圧・神道重視の宗教政策を進め、明治初期の神仏分離・廃仏毀釈の先駆けとなった。
その後、仏教弾圧事件などで幕命によって強制隠居させられるが、嘉永6年(1853年)のペリー来航に際して、老中首座・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に参加。
斉昭は、水戸学の立場から強硬な攘夷論を主張し、江戸防備のために大砲と弾薬、洋式軍艦「旭日丸」を幕府に献上した。
安政2年(1855年)に安政の大地震が発生し、藤田東湖ら斉昭のブレーンが死去。
2年後、斉昭に対して協力的であった阿部正弘が死去すると、斉昭は開国を推進する井伊直弼と激しく対立。
さらに斉昭は、第13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題で、南紀派の井伊直弼らに対して、七男・一橋慶喜を推す一橋派を形成して争う。
しかし、この政争で斉昭は敗れ、井伊直弼は大老に就任して独断で日米修好通商条約を調印、さらに第14代将軍も南紀派が推す慶福(家茂)とした。
斉昭は井伊直弼の独裁に怒り、松平慶永、徳川慶恕、一橋慶喜らと江戸城へ無断登城。
井伊直弼を詰問したが、逆に直弼から謹慎を命じられて幕府中枢から排除された。
安政6年(1859年)には、孝明天皇による戊午の密勅が水戸藩に下されたことに井伊直弼が激怒し、斉昭は永蟄居を命じられて政治生命を完全に絶たれた(安政の大獄)。
万延元年(1860年)、桜田門外の変から5ヶ月後、斉昭は水戸で急逝した。享年61歳。
「烈公」と呼ばれるほど、荒々しい気性で生き抜いてきた斉昭の死後、水戸藩は歴史の表舞台から姿を消していった。