大河ドラマ麒麟がくる
織田彦五郎信友
大河ドラマ「麒麟がくる」で織田信秀、信長親子を嫌い、最も苦しめた人物として登場するのが「織田彦五郎信友」という人物です。
ドラマの序盤では、たびたび織田信秀、信長親子の邪魔をするので、かなり嫌な奴として描かれることになりそうですが、そこまでして「織田彦五郎信友」が邪魔をするのには、それなりの理由がありました。
この記事では、なぜ「織田彦五郎信友」が斎藤道三や今川義元など他国の大名と連携し、同じ織田家の信秀、信長親子に敵対心を抱いていのか、「織田彦五郎信友」の生涯を紹介しながら理由に迫っていこうと思います。
出典:http://yoshi-kanagawa.blog.jp/
織田彦五郎信友
尾張の守護代・織田氏は清須城を拠点にして尾張下四郡を支配する「織田大和守家(以下、大和守家)」と、岩倉城を拠点にして尾張の上四郡を支配する「織田伊勢守家」がありました。
織田彦五郎信友は「大和守家」を支える『清洲三奉行』の一つ、織田氏庶流の「織田因幡守家」の当主・織田達広の子として生まれたとされています。
経緯は分かりませんが、彦五郎信友は「大和守家」の織田達勝の後継者となり、尾張守護・斯波義統を擁立して権力を握りました。
しかし、実際の彦五郎信友は家臣の坂井氏や河尻氏に主導権を握られたお飾りの主君であったともいわれています。
やがて交易の要衝・津島、熱田を抑えた『清洲三奉行』の一つ「織田弾正忠家(以下、弾正忠家)」の織田信秀が経済力を背景に勢力を伸ばし始めると、「大和守家」の彦五郎信友は「弾正忠家」の信秀と尾張国の覇権をめぐって対立しました。
元々、主君と家臣の関係にあった両家。
彦五郎信友は「大和守家」の当主として、家臣筋の「弾正忠家」が栄えることには抵抗があったに違いありません。
しかし、両家はその後、お互いを潰すところまではいかず、しばしば小競り合いと和睦を繰り返していきました。
信秀死後、彦五郎信友は「弾正忠家」に対して戦を仕掛けましたが、信秀の後を継いだ信長と信秀の弟・信光の前に敗れます。
徐々に勢力を失いつつあった彦五郎信友は信長暗殺計画を企てますが、事前に斯波義統の家臣が信長に密告したために失敗。
逆に清須城が焼き討ちを受けるなど反撃を受け、彦五郎信友はどんどんと追い込まれていきました。
天文23年(1554)、彦五郎信友は「小守護代」と呼ばれた家老の坂井大膳と謀り、斯波義統を暗殺します。
すると逃亡していた義統の子・義銀を擁した信長から攻められ、またしても彦五郎信友は大敗し、多くの家臣を失ってしまいました。
天文24年(1555)、彦五郎信友は起死回生の一手として、信長の強力な支援者・信光の調略を計画します。
しかし、逆に信光はこれを機に彦五郎信友を亡き者にすることを考えていました。
そして味方をするフリをして清須城にやってきた信光によって、何も知らない彦五郎信友は酒宴の席で殺されてしまいました。
この彦五郎信友の死により「大和守家」は断絶し、信長の織田氏と尾張国の統一が前進することになっていきます。
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