大河ドラマ西郷どん(せごどん)
田原坂の戦い
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第46話、西南戦争で一番の激戦となった「田原坂の戦い」が始まり、西郷軍の副司令官格・篠原国幹ほか、旧庄内藩の伴兼之、榊原政治なども次々と戦死していきます。
また、この「田原坂の戦い」では政府軍の川路利良が率いた警視抜刀隊も戦闘に参加し、元薩摩士族同士が殺し合うという悲劇を生んでいました。
この記事では多くの戦死者を出し、西南戦争の戦況を大きく左右することになった「田原坂の戦い」について簡単に紹介していきます。
出典:https://headlines.yahoo.co.jp/
田原坂の戦い
田原坂(たばるざか)は熊本県熊本市と熊本県玉名市を結ぶ幅4m、長さ1.5km、標高差60mの坂道で、明治10年(1877)3月4日~20日の17日間、西郷軍と政府軍の壮絶な死闘が繰り広げられた場所である。西南戦争での両軍の戦死者は14,000人、その4分の1がこの田原坂で命を落とした。
2月21日、西郷軍が熊本鎮台のある熊本城を包囲したため、政府は新手の軍隊を投入し、唯一大砲が通れる田原坂、吉次峠を越えて救援に向かおうとした。
これを阻止するため、西郷軍は隊を分けて田原坂方面へ進軍し、雨も降る厳しい状況で戦いは始まる。
3月4日、吉次峠で激戦が繰り広げられ、西郷軍・篠原国幹の戦死もあったが政府軍は撃退されてしまった。
さらに田原坂の正面突破を試みた政府軍は、地形を利用した西郷軍の銃撃と抜刀攻撃の前に苦戦を強いられる。
このため、政府軍は西郷軍の抜刀攻撃に対抗するため、警視隊の中から剣術に秀でた警察官を選抜して抜刀隊を編成した。
この抜刀隊の大半は元薩摩士族であったため、かつての仲間同士、兄弟同士が戦う悲惨なものとなる。
3月15日、抜刀隊の活躍で政府軍は防衛線を崩すものの正面突破には至らず、戦死者2,000名、負傷者2,000名を数えた。
このため、政府軍では田原坂突破の会議が開かれ、最大兵力を投入し2方面からの総攻撃を決定。
3月20日早朝、政府軍は豪雨と霧に紛れながら主力部隊が田原坂に接近しつつ、砲兵が陣地から激しい砲撃を開始した。
そして砲撃が止むと同時に西郷軍本営へ一斉突撃すると、猛砲撃と豪雨のために対応が遅れていた西郷軍はついに敗走。
こうして田原坂の防衛線は破った政府軍は、多大な戦死者を出しながらも熊本鎮台救援の第一歩を踏み出し、西南戦争の戦況を優位に進めていくこととなった。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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