大河ドラマ西郷どん(せごどん)
天璋院(篤姫)のその後
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第36話で西郷吉之助と再会を果たした天璋院(篤姫)。
第37話では、天璋院(篤姫)が西郷吉之助と徳川家の始末について話し合います。
第37話の簡単なあらすじ
西郷吉之助は、天璋院(篤姫)がてっきり徳川慶喜の命乞いをするものだと思っていたが、天璋院(篤姫)から出た言葉は意外なものだった。
「慶喜殿の首ひとつで、この戦を終わらせておくれ」
天璋院(篤姫)は慶喜の命と自らが自決することで徳川家を救おうと考えていた。
このとき西郷吉之助は天璋院(篤姫)の願いを断り、あくまで徳川家を叩き潰すことを主張するが、その後、勝海舟との会談を経て江戸総攻撃は中止となる。
そして江戸城は新政府に明け渡されることとなり、天璋院(篤姫)は大奥をあとにすることとなった。
この記事では、江戸城を退去したあとの「天璋院(篤姫)のその後」について簡単に紹介していきます。
天璋院(篤姫)のその後
天璋院(篤姫)は江戸城の引き渡しが決まったあと、混乱する奥女中たちに、徳川家の女主人として全員の行く先は自らが責任を持つと宣言し、大奥を立ち退いた。
大奥を出てからの天璋院(篤姫)は鹿児島には戻らず、東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸で暮らしていた。
生活費は島津家からは一切貰おうとはでず、あくまで徳川の人間として振舞ったという。
その後、一橋邸をはじめ東京の各地を転々として、旧幕臣・勝海舟や静寛院宮(和宮)とも度々会っていた。
規律の厳しかった大奥とは違った自由気ままな生活を楽しんでいたという。
しかし、奥女中たちに宣言した通り、天璋院(篤姫)は自分の所持金を切り詰めてでも元大奥関係者の就職・縁組に奔走していた。
そのために自らの生活が困窮することがあったが、薩摩藩からの金銭援助を頑として断り、死後に確認された所持金は3円(現在の6万円ほど)しかなかったという。
また、徳川宗家16代・徳川家達に英才教育を受けさせ、最後の最後まで『徳川』の人間としての人生を貫いた。
明治16年(1883)に徳川宗家邸で脳溢血で倒れた天璋院(篤姫)は、意識が回復しないまま死去。享年49。
葬儀に集まった者は1万人にのぼったといい、天璋院(篤姫)は徳川将軍家の菩提寺である上野の寛永寺境内にあった夫・家定の墓の隣に埋葬された。
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