大河ドラマ西郷どん(せごどん)
中岡慎太郎
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第31話に登場する山口翔悟が演じる土佐脱藩浪士・中岡慎太郎。
龍馬のお使いのような形で西郷吉之助と対面し、その後「薩長同盟」締結に向けて協力していきますが、どうもこの中岡慎太郎は坂本龍馬より少し格下の相棒というイメージで描かれることが多いような気がします。
実際、二人が一緒に行動していたのは実はほんのわずかな時間しかありませんし、「薩長同盟」に関してもこの中岡慎太郎の方が貢献していると言ってもいいのですが・・・。
この記事では、長州藩とズブズブの関係にあって「薩長同盟」締結に尽力した謎多き人物「中岡慎太郎」について簡単に紹介します。
中岡慎太郎
尊王攘夷志士として
中岡慎太郎は、天保9年(1838)に土佐国の大庄屋・中岡小傳次の長男として生まれました。
安政2年(1855)、武市半平太の道場で剣術を学んだ中岡慎太郎は大きな影響を受け、文久元年(1861)には「土佐勤皇党」に加盟。
長州藩士・久坂玄瑞らと共に佐久間象山のもとを訪ねて、国防・政治改革について議論するなど尊王攘夷思想に目覚めていきました。
しかし、文久3年(1863)に京都で八月十八日の政変が起こると、土佐藩でも「土佐勤王党」ら尊王攘夷志士に対する大弾圧が始まります。
すると中岡慎太郎は、いち早く土佐藩を脱藩して長州藩に亡命し、以後は長州藩内で脱藩志士たちのまとめ役となります。
また、長州では八月十八日の政変で都を追われていた三条実美の衛士となり、各地の尊王攘夷志士たちとの連絡係を務めた中岡慎太郎。
元治元年(1864)には上洛して、薩摩藩・島津久光の暗殺まで計画しています。
その後、中岡慎太郎は脱藩志士たちを率い、禁門の変や下関戦争で長州藩に加勢しました。
武力倒幕か大政奉還か
過激な尊王攘夷行動が目立った中岡慎太郎でしたが、度重なる志士への弾圧と雄藩同士の対立などから、徐々に思想を変更していきました。
やがて中岡慎太郎は、雄藩連合による『武力倒幕』を考えるようになり、「薩長同盟」の締結を目指して活動。
亀山社中を結成した坂本龍馬を巻き込んで薩摩と長州の和解に奔走し、慶応2年(1866)、ついに「薩長同盟」締結にこぎつけました。
慶応3年(1867)、中岡慎太郎は坂本龍馬と共に土佐藩から脱藩罪を許されて帰藩します。
そして中岡慎太郎は、土佐藩の熱心な『武力倒幕』派藩士・乾退助(のちの板垣退助)と薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛との間で『武力倒幕』に向けた「薩土密約」を締結させました。
しかし、この「薩土密約」は藩主の許可を得た正式なものではなく、土佐前藩主・山内容堂が徳川宗家に対して強い恩顧意識を持っていたため、土佐藩は平和的解決を図る『大政奉還』の道を模索。
坂本龍馬、後藤象二郎らが中心となって薩摩藩と協議し、幕府に政権を朝廷に返させる『大政奉還』を目指した「薩土盟約」を締結させました。
このとき『武力倒幕』派であった中岡慎太郎も同席していますが、平和的解決を図った「薩土盟約」をどのように見届けたのかはよく分かりません。
近江屋事件
「薩土盟約」直後、中岡慎太郎は長州の奇兵隊を参考にした陸援隊を組織しました。
中岡慎太郎は『武力倒幕』路線を貫こうとしていたのか、それとも軍事的圧力で『大政奉還』を成し遂げようとしたのか。
また薩摩藩も後藤象二郎、坂本龍馬も、徳川慶喜が『大政奉還』を行うことはあり得ないと考え、「薩土盟約」は幕府が拒否した際の『武力倒幕』に向けた茶番劇との説もあるようです。
その後、薩摩藩は当初の予定通り『武力倒幕』路線へ突き進むため、「薩土盟約」を解消。
しかし、予想に反して徳川慶喜が『大政奉還』をギリギリのタイミングで受け入れたため、薩摩藩は倒すべき相手を失ってしまいました。
このような状況の中、中岡慎太郎は京都四条の近江屋にいる坂本龍馬を訪ねた際に何者かに襲撃されてしまいます。
坂本龍馬は即死し、重傷を負った中岡慎太郎は二日後に死亡。享年30。
西郷隆盛 は中岡慎太郎のことを「節義(志を変えず、人としての正しい道を守ること)の士なり」と語っています。
また、中岡慎太郎の性格は西郷に似ていて、いつも西郷隆盛を賞賛し、西郷隆盛も中岡慎太郎を賞賛していたといいます。