大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」
版籍奉還
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第39話から、日本は徳川幕府の政治から大久保利通らが主導する明治新政府の政治へと移り変わっています。
その中で「薩摩藩」という名称も「鹿児島藩」へと変わっているのですが、この記事では藩名が変わった原因である新政府の政策「版籍奉還」について簡単に紹介していきます。
出典:https://www.oidemase.or.jp/
版籍奉還
江戸時代、各藩主は代が替わるごとに領地の所有を将軍から承認される形を取っていましたが、幕府が無くなるとその法的根拠が失われていました。
また戊辰戦争において、ほとんどの藩主は指導力を発揮できず、各藩内においても藩主の権威が失墜していました。
そんな中、新政府が樹立されると長州藩の木戸孝允(桂小五郎)や伊藤博文(俊輔)、薩摩藩の寺島宗則や森有礼らは幕藩体制の限界を指摘し、改革を主張していきます。
木戸孝允は慶応4年(1868)には早くも土地と人民を朝廷に返還する「版籍奉還」の必要を建言し、伊藤博文も姫路藩主・酒井忠邦と連携して同様の建白書を提出しました。
一方、薩摩藩では寺島宗則が慶応3年(1867)に土地と人民を朝廷に返還するよう求めた意見書を藩主・島津忠義(茂久)に提出していました。
そして大久保利通が木戸孝允の「版籍奉還」論に同意すると、明治2年(1869)1月に薩摩藩の大久保利通、長州藩の広沢真臣、土佐藩の板垣退助が会合を行い、肥前藩を加えた薩長土肥4藩の藩主が連名で「版籍奉還」の上表を提出しました。
するとその後、諸藩からの奉還上表の提出が相次ぎ、5月までにはわずかの藩を除き、262の藩主が同様の上表を提出しました。
当時、諸藩はいったん新政府に返上した土地や人民については、政府から再び交付されると考えていました。
一方、政府では「版籍奉還」への意見交換がなされ、6月17日に「版籍奉還」は勅許となり、藩主を廃して知藩事に任命します。
この「版籍奉還」は知藩事と藩士が同じ明治政府の家臣となり、これまでの武士道に基づく藩主と藩士の主従関係を否定することになるため、諸藩の抵抗が予想されていました。
このため、政府はその意義を曖昧な表現でぼかして同意を求め、戊辰戦争の恩賞である賞典禄を定めて倒幕に参加した藩主や藩士の不満を逸らしました。
ボヤっと進められた「版籍奉還」は大きな抵抗も無く終わりましたが、政府はこの直後に知藩事の家禄(給与)を各藩の全体収入の10分の1と定め、藩の財政から切り離して次第にその権力を削いでいくことになります。
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