大河ドラマ「麒麟がくる」
織田信秀
大河ドラマ「麒麟がくる」で高橋克典が演じるのが戦国の風雲児・織田信長の父・織田信秀。
今回の「麒麟がくる」では、これまでイメージを覆し、保守的な信長が描かれるとのことですが、その保守的要素について大きな影響与えていたのが、父親である織田信秀だと思います。
この記事では、ライバル斎藤道三としのぎを削った革命児の父・織田信秀について簡単に紹介していきます。
織田信秀
織田信秀は永正8年(1511年)、清洲三奉行の一人で尾張国勝幡城主・織田信定の長男として生まれた。
父・信定は尾張の守護代を務める「織田大和守家」の一族で、「清洲三奉行」として織田大和守家に仕え、代々「弾正忠」を称していた(以下、織田弾正忠家)。
織田弾正忠家は勝幡城を築いて以後、津島を支配したことから勢力を伸ばし始め、信秀は大永6年(1526年)頃に家督を譲られて当主となった。
信秀は家督を継いで早々、主家である織田大和守家・織田達勝と清州三奉行・織田藤左衛門の争いに巻き込まれたが、この和議をうまくまとめたことで自らの存在感を示すことに成功した。
やがて信秀は今川氏豊の居城であった那古野城を謀略によって奪い取り、居城とするとその後も古渡城、末森城を築いては居城を移し、勢力を拡大していった。
これで経済基盤を広げた信秀は上洛し、朝廷に献金して官位も得るなど、尾張国外にもその名を知られるようになっていった。
その後、今川の支援を受けた三河の松平清康に尾張を侵攻されたが、「守山崩れ」で清康が不慮の死を遂げる。
すると、信秀は混乱する松平氏の隙を突いて逆に三河に侵攻し、安祥城を攻略して長男・信広を置いて西三河にも影響を及ぼすようになった。
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天文11年(1542年)、美濃国守護の土岐頼芸と斎藤道三が争った結果、土岐頼芸は尾張国に追放された。
この土岐頼芸を支援するため、信秀は越前国に追放された土岐頼純、越前国守護・朝倉孝景と連携して美濃に出兵。
斎藤道三を相手に一時は大垣城を奪うなど、戦況を優位に進めた。
しかし、天文13年(1544年)、勢いに乗った信秀は斎藤道三の居城である稲葉山城を攻めたが、反撃を受けて壊滅。
これによって尾張国内での評価を下げた信秀は、織田一族内の反乱鎮圧に追われ、斎藤道三にも大垣城を奪還されてしまった。
さらに信秀は小豆坂の戦いで今川方の太原雪斎に敗北を喫し、その後は今川、斎藤の両面から圧迫され、主家の織田大和守家とも争いが絶えなくなってしまった。
このような状況下の中、ついに信秀は斎藤道三との和睦を決意し、家老・平手政秀が奔走して話をまとめる。
そして美濃で影響力が低下していた斎藤道三と思惑が一致して合意に至り、信秀の嫡男・信長と、道三の娘・帰蝶との婚姻が決まった。
この頃になると三河から信秀勢力を排除しようとする今川が大軍をもって動き出し、長男・信広の籠もる安祥城は奮戦むなしく落城する。
さらに信広が捕縛されたことで、人質としていた松平広忠の嫡男・竹千代(後の徳川家康)との人質交換が行われ、信秀は西三河での勢力を完全に失ってしまった。
その後も今川の侵略が続く中、信秀は病に冒されて天文21年(1552年)に死去。享年42。
最後まで信秀は主家・織田大和守家に対して臣従関係を保っており、名目上の信秀の地位は守護代に仕える奉行だった。
しかし、その権威は主家・織田大和守家や、その主君である尾張守護・斯波氏を超え、実質上は尾張の戦国大名の地位を築いていた。
信秀が形式的主君であった主家や他の織田一門と幾度も対立して争っていたが、これらを徹底的に潰そうとしなかったのは、旧来の権威や秩序を重んじる保守的な思想が強かったとされている。
そしてこれたの排除は、嫡男・信長によって実行されることとなっていく。
出典:https://nobunaga-yabou.blog.so-net.ne.jp/2017-08-07
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