大河ドラマ「麒麟がくる」
平手政秀
大河ドラマ「麒麟がくる」で上杉祥三が演じるのが、織田信長のもり役として有名な平手政秀。
とにかくやりたい放題だった若い信長に振り回された末、腹を切るという何とも可哀相な男。
しかも、実際に亡くなった時はまだ62歳なのに、なぜか「かなり高齢の優しいお爺ちゃん」イメージを植えつけられてる気の毒な人でもあります。
今回は覇王・信長の最初の犠牲者となったといっても過言ではない、平手政秀について簡単に紹介していきます。
平手政秀
平手政秀は延徳4年(1492年)、平手経英(経秀)の子として尾張国に生まれた。
若い頃の経歴はよく分かっていないが、織田信秀の重臣として外交面で主に活躍していたという。
また、平手政秀は道や和歌などに通じた文化人でもあり、天文2年(1533年)に歌舞音曲を扱う楽奉行として公家・山科言継が尾張を訪問した際も、平手政秀の優秀さを絶賛されている。
このように教養を武器にして公家との交流を深めていた平手政秀は、天文12年(1543年)に信秀の名代として上洛。
朝廷との交渉活動を担当して、織田家中において重要な役割を果たしていった。
天文3年(1534年)、信秀に嫡男・信長が誕生すると、平手政秀は傅役となって次席家老を務めた。
天文16年(1547年)、今川方との小競り合いにおいて信長が初陣した際、平手政秀も後見役としてサポートした。
翌年、平手政秀の尽力により、関係が悪化していた美濃の斎藤道三と信秀の和睦が成立。
この時、信長と帰蝶(濃姫)の婚約を取り纏めたのも平手政秀であった。
その後、信秀が死去して織田家中は荒れる中、一向に収まる気配のない信長の奇行を憂いた平手政秀は自身の死によって信長を諌めようと天文22年(1553年)に自刃した。享年62。
信長は平手政秀が死んだ後、奇行を止めたわけでなかったが、政秀のために菩提を弔うために「政秀寺」を建立している。
自刃の理由には、信長と次第に不和になり、信長を恨んで自刃したとされる説がある。
この不和の原因を作ったのは、信長が平手政秀の長男・五郎右衛門の馬を欲しがった際、五郎右衛門が拒否したために信長に逆恨みされたとされるものである。
また、他にも信長の弟・信行を擁立しようとする林秀貞や柴田勝家との対立で敗れ、自刃に至ったとする説もある。
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