大河ドラマ西郷どん(せごどん)
橋本左内(はしもとさない)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で、西郷吉之助(隆盛)が江戸の旅籠・磯田屋で出会うのが橋本左内(はしもとさない)。
医学を学んでいた橋本左内は、磯田屋で突然ぶっ倒れた飯盛女・タマに治療を施して、西郷やその場にいた一橋慶喜に名も名乗らずに立ち去ってしまいます。
実はこの橋本左内は、越前藩主・松平慶永(春嶽)の密偵で、磯田屋では二人の動向を探っていました。
のちに西郷と再会した橋本左内は、自らの身分と名を明かして幕府の無能さと次期将軍問題を議論しますが、斉彬から何も聞いていない西郷はチンプンカンプンw。
この時、橋本左内は呆れて帰ってしまいますが、その後、西郷と磯田屋で起こる様々な事件を経験し二人は友情をはぐくむことになりました。
今回は、安政の大獄で若くして死んでしまう越前藩の医師・橋本左内について簡単に紹介します。
橋本左内(はしもとさない)
橋本左内は、天保5年(1834年)に橋本長綱の子として越前国に誕生した。
母は小林静境の娘。弟には、のちに陸軍軍医総監となった橋本綱常がいる。
嘉永2年(1849年)、大坂に出て医者の緒方洪庵や杉田成卿に師事して蘭方医学を学んだ橋本左内は、その後、水戸藩の藤田東湖、薩摩藩の西郷吉之助、小浜藩の梅田雲浜、熊本藩の横井小楠らと交流する。
やがて越前福井藩主の松平慶永(春嶽)に側近として登用され、藩医となった。
13代将軍・徳川家定の後継者問題では、慶永を助けて一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴え続ける。
橋本左内は、幕藩体制は維持しながらも西欧技術の導入を考えていた。
安政6年(1859年)、大老となった井伊直弼によって一橋派への大弾圧(安政の大獄)が始まり、慶永は隠居謹慎を命じられ、橋本左内は後継者問題に介入したことを責められ斬首となった。享年26歳。
西郷隆盛は橋本左内の死後も「学問も人物も、自分がとても及ばないと思った者が二人いる。一人は先輩の藤田東湖で、もう一人は友達の橋本左内だ」と語っていたという。