大河ドラマ西郷どん
松平慶永(春嶽)
大河ドラマ西郷どんで、島津斉彬や徳川斉昭と共に一橋派(次期将軍を一橋慶喜にしようとする派閥)に属しているのが松平慶永(春嶽)。
橋本左内を密偵として使って、西郷吉之助(隆盛)と接触させるなど、表には出てこない活動をしています。
どうも松平慶永(春嶽)は、有名な人物でありながら「烈公」と呼ばれた徳川斉昭の影に隠れ、どんなドラマや映画でもいまいちメジャーになりきれません。
今回は、薩摩藩主・島津斉彬、土佐藩主・山内豊信(容堂)、宇和島藩主・伊達宗城らと共に幕末の四賢侯と呼ばれた松平慶永(春嶽)について簡単に紹介します。
松平慶永役 津田寛治
松平慶永(春嶽)
松平慶永は文政11年(1828年)に田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男として生まれた。幼名は錦之丞。
伊予松山藩主・松平勝善の養子となることが決定していたが、天保9年(1838年)に越前福井藩主・松平斉善が突然死去したため、錦之丞が養子となり、わずか11歳で越前松平家の家督を継承して松平慶永を名乗ることになった。
天保10年(1839年)に越前福井藩は、全藩士の俸禄半減(3年間)と、藩主自身の出費削減(5年間)を打ち出し、財政基盤の立て直しに努め、翌年には保守派の家老を罷免して、中根雪江ら改革派が藩政を主導した。
嘉永6年(1853年)、ペリーの艦隊が来航して通商を求めた際、慶永は徳川斉昭や島津斉彬と共に海防強化や攘夷を主張していたが、その後、老中・阿部正弘らと交流して開国の必要性に気づく。
第13代将軍・徳川家定の後継者問題で、慶永は一橋慶喜を後押しするため、橋本左内を京都に派遣して運動させたが、井伊直弼が大老となると徳川慶福を推す南紀派の勝利が確実となった。
その後、幕府が朝廷の勅許なしで日米修好通商条約を調印したため、慶永は徳川斉昭らと登城して抗議。
しかし安政5年(1858年)に、この無断登城が罪に問われて、慶永は強制的に隠居させられ謹慎の処罰を受ける。
桜田門外の変で、井伊直弼が暗殺されると幕府は政策転換し、慶永は文久2年(1862年)に幕政への参加を許された。
慶永が協力していた薩摩藩主・島津斉彬が死去すると、兵を率いて上洛した弟の島津久光は、将軍後見職に一橋慶喜、大老に松平慶永とすることを要求した。
この結果、文久2年(1862年)に慶永は新設された「政事総裁職」に就任し、慶喜と共に京都守護職の設置、将軍・徳川家茂の上洛など公武合体政策を推進する(文久の改革)。
翌年には慶永も上洛したが、京都では尊王攘夷派の長州藩が力を持っていたため、活動が制限された。
その後、慶喜が尊王攘夷派と妥協しようとすると、慶永は反対して政事総裁職の辞表を提出。
辞表は受け入れられなかったが、慶永は勝手に越前に帰国したため政治総裁職を罷免された。
慶永が帰国すると越前福井藩は城中に全藩士を集めて「挙藩上京計画」を発表。
この計画は、慶永を筆頭に兵力を総動員し、越前国を捨てて全軍で京都に出兵して日本を制圧するというもの。
朝廷・幕府どちらにもつかず、それぞれの立場による対立を武をもって治め、広く才能ある人材を登用して改革を進めようとする越前福井藩の計画には、薩摩藩・熊本藩・加賀藩などが協力を了承し、天皇までもが了承していたといわれる。
越前福井藩の計画に、日本中の諸藩は騒然となったが、次第に藩内外の反対派の活動によって連携がほころびはじめ、決行直前に急遽中止となってしまった。
このため越前福井藩に関係する者は、朝廷を蔑ろにしたとして勤皇の士のテロに悩まされることとなる。
その後、会津藩と薩摩藩が協力して長州藩を追い落とすと、慶永は参預に任命されて再度上洛。
すぐに参預会議が開かれたが、意見が対立して機能しなかったため、朝廷側の中川宮は皆を自邸に招いて酒席を設けた。
この席で泥酔した慶喜は、島津久光・松平春嶽・伊達宗城を指さして「この3人は天下の大愚物・大奸物であり、後見職たる自分と一緒にしないでほしい」と発言する。
この言葉に島津久光はブチギレして参預会議を離脱、松平慶永らが関係修復を図ろうと奔走したが、次々に参預を辞任する者が現れて参預会議は崩壊した。
慶応3年(1867年)、島津久光の使いの西郷隆盛に促されて山内容堂、伊達宗城が上京し、京都にいた慶永も薩摩藩士・小松帯刀に説得され四者で四侯会議を開催した。
この会議では、久光は幕府の権威を縮小し、朝廷と雄藩連合による合議政治への移行を画策していた。
朝廷関係者、一橋慶喜らを交えた会議において、慶喜の巧みな懐柔により四侯会議の意見は取り上げられず、慶喜の意見が完全勝利。
この会議の失敗以降、薩摩藩は強硬な倒幕側へ傾いた。
逆に土佐藩は、幕府擁護の姿勢に傾いて、慶喜に対して大政奉還を建白し、慶永もこれに賛同。
その後、大政奉還がなされて王政復古が宣言された。
慶永は王政復古後、薩摩・長州の討幕運動には賛成せず傍観していたが、維新後の新政府では民部卿、大蔵卿などの要職を歴任した。
明治3年(1870年)に政務を退き、明治23年(1890年)に小石川の自邸で死去。享年63歳。
幕末四賢侯の一人と呼ばれた慶永であったが、「本当の意味で賢侯だったのは島津斉彬公で、他の三人は誰も斉彬公には及ばない」と自ら語ったといわれる。
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