大河ドラマ西郷どん(せごどん)
島津茂久
大河ドラマ西郷どんで、島津斉彬亡き後に薩摩藩主になる島津久光の子・島津茂久。
父・久光を差し置いて、茂久が藩主に就任したのは、斉彬の遺言があったからですが、実権はすぐに祖父・斉興が握ってしまいます。
さらに祖父の死後は、父・久光が後見として実権を握り、この茂久は何かできるチャンスはありませんでした。
今回は、退位間近の第125代天皇陛下の曽祖父にあたる島津茂久(忠義)について簡単に紹介します。
島津茂久(もちひさ)
薩摩藩の最後の藩主で、島津氏第29代当主。
初名は忠徳、藩主時は茂久、維新後は忠義を名乗った。
天保11年(1840年)に島津氏分家の重富家当主・島津久光の長男としてに誕生し、安政5年(1858年)の斉彬没後、遺言により島津本家を継いで藩主となった。
遺言では斉彬の子・哲丸が幼少のために仮養子という形だったが、ほどなくして哲丸は死去している。
茂久は藩主になったものの、藩政の実権は祖父の斉興、斉興死後は後見人となった父・久光、さらに西郷隆盛、大久保利通らに握られ、茂久主導で幕政に関与することはできなかった。
大政奉還後、茂久は西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀らの進言で薩摩藩兵3千を率いて京へ向かい、鳥羽・伏見の戦いで大勝利を納めた。
この直後、茂久は陸海軍総督に任命されるが、西郷の進言でたった1日で辞任している。
西郷の進言は、茂久の総督就任が「島津幕府」の足掛かりと考える藩士たちを抑えるためである。
明治維新後は長州・土佐・肥前の3藩と協力して版籍奉還を行い、名を「忠義」と改めて薩摩藩知事となった。
明治4年(1871年)の廃藩置県後に茂久は公爵となり、政府の命によって東京に在住。
茂久は、西郷が起こした西南戦争時も東京に留まっており、一切関わらなかった。
明治17年(1884年)、鹿児島県令に「造士館再建の願」を提出し、鹿児島県立中学造士館の設立に尽力。
明治21年(1888年)に政府の許可を受け鹿児島に帰郷し、明治30年(1897年)に58歳で死去。
茂久の八女・俔子(ちかこ)は久邇宮邦彦王の后となり、昭和天皇の皇后となる良子(ながこ)を産んだ。