大河ドラマ西郷どん(せごどん)
村田新八
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で、西郷小吉(隆盛)たちの下加治屋町郷中の中で一番体の小さい村田新八。
村田新八は、小さい頃から西郷隆盛を兄と慕うカワイイ弟分。
何があっても「西郷命」の村田新八は、島流しも一緒、死ぬ時も一緒。
今回は、大久保利通からも期待され、勝海舟からも評価されていた村田新八について簡単に紹介していきます。
村田新八
村田新八は、天保7年(1836年)に高橋八郎の第三子として生まれ、村田十蔵の養子となった。
西郷隆盛より8歳年下。
村田は年少のときから西郷吉之助(隆盛)に付き従い、自然と尊王の志を持っていく。
文久2年(1862年)に西郷と共に島津久光に先立って上京し、諸藩の情勢を探っていたが有村俊斎に命令違反を報告され、有馬新七らの挙兵を煽動したと疑われて、喜界島へ島流しにされた。
元治元年(1864年)、同じく島流しに遭っていた西郷は赦免され、新八を鹿児島へ連れ帰った。
慶応2年(1866年)、薩長同盟のために長州藩士の木戸孝允らが上京した際、西郷に従って出迎えた。
同年、新八は黒田清隆らと山口に赴き、長州藩主・毛利敬親に謁見。その後、伊藤俊介(博文)らとともに上海を訪問した。
慶応3年(1867年)、薩摩藩が王政復古論で統一されると、新八は諸藩を遊説し、坂本龍馬らと会ったのちに上京した。
京都では新撰組の隊士と遭遇し、新八は軽傷を負ったがなんとか切り抜けた。
戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いでは御台所御門の警備をしていたが、のちに各地に出陣。
東征大総督府の下参謀となった西郷は、二番小隊長に新八を任命して東海道を進撃。
新八は、西郷と勝海舟の会談でも護衛として付き、続いて東北地方を転戦した。
のちに勝海舟は、大久保に次ぐ人物であると新八を評価している。
その後も西郷に付き従って活躍。明治4年(1871年)には、条約改正のための岩倉具視の使節団の一員に加わり、欧米視察も行った。
帰国後、西郷が下野して鹿児島に帰郷したことを聞くと、新八も辞職して鹿児島へ帰る。
信頼していた新八の辞職に、大久保利通も言葉がなかったという。
帰郷した新八は、桐野利秋らと私学校を創立して砲隊学校の監督となった。
新八は尊敬する西郷を首相にしたいとの思いを抱いており、その後、私学校本部で出兵が決定、新八は二番大隊指揮長になった。
西南戦争が始まると新八は、熊本城を包囲して背面軍を指揮。
しかし、熊本城をなかなか落とせず、包囲が長引く間に意見が対立。政府軍の進撃が始まると、新八もこれに対処するために熊本城攻囲をまかせて迎撃しようとした。
徐々に政府軍に押されてくると、西郷軍は田原坂の戦いに敗れ退却。
政府軍の攻勢で人吉本営が危うくなると、新八は自ら指揮して政府軍と戦ったが大敗した。
その後も連敗した西郷軍は鹿児島に入り、城山を占拠。
政府軍が城山を総攻撃すると、新八は西郷の自決を見届けた後、政府軍と最後に交戦し自決した。享年42歳。
新八は、シルクハット、フロックコートという姿で戦っていたと言われている。