土岐政房は長禄元年(1457)に美濃守護・土岐成頼の長男として生まれました。

最初の名は「頼継」でしたが、後に8代将軍・足利義政から『政』の一字を受けて「政房」に改名しています。

政房が生まれた頃、応仁の乱の戦火を避けるために京から多くの文化人が美濃に流入したことから、美濃国の文化は花開き、やがて政房も舞の名手として公家・一条兼良に評価されています。

しかし、当時の美濃国は守護代・斎藤氏が強大な力を持っており、土岐氏はお飾りの国主に過ぎませんでした。

それでも「守護」の職はそれなりの権威を持っており、この職を巡って美濃は常に争いの種が生まれていました。

 

 

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明応3年(1494)、父・土岐成頼は四男・元頼を溺愛し、嫡男であった政房を廃嫡しようと画策します。

守護代・斎藤利藤と小守護代・石丸利光らは成頼の指示で元頼を擁立した一方で、政房は斎藤妙純から支援を受けて両者は争い、船田合戦と呼ばれる内乱に発展しました。

明応4年(1495)、『政房派』は『元頼派』を破り、争いの発端となった成頼を隠居させて政房が家督と守護職を継承します。

それでも『元頼派』は諦めずに抵抗を続けましたが、やがて斎藤妙純によって追い込まれ、元頼と石丸利光が自害したことで美濃を揺るがした内乱は終結しました。

 

政房を支援した斎藤妙純は一段と権力を強めましたが、明応5年(1496)に『元頼派』を支援していた六角氏と戦い、子の利親と共に戦死したため、その後は小守護代・長井長弘の権力が強まっていきました。

一方、政房は次期後継者に嫡男・頼武を差し置いて次男・頼芸を選んだことで、またしても美濃国は二分する騒動に発展します。

『頼芸派』には小守護代・長井長弘がつき、『頼武派』には守護代・斎藤利良が味方して両派は合戦となり、政房は永正16年(1519)、内乱の最中に死去しました。

両派の争いは最初は『頼武派』が勝ち、その後『頼芸派』が逆転に成功して頼武が越前に逃れましたが、政房の死後には越前・朝倉氏の支援を得た頼武が美濃に戻って再逆転。

その後も『頼芸派』は諦めず、美濃の混乱は続いていきます。

 

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