大河ドラマ麒麟がくる
三好長慶
大河ドラマ「麒麟がくる」では、斎藤道三にも劣らない、乱世の梟雄・三好長慶(山路和弘)が登場します。初登場時の三好長慶は京で絶大な権力を手にしており、これを良しとしない敵対勢力(細川晴元など)から命を狙われても、家臣の松永久秀と共に乗り切って只物ではない姿を見せてくれます。しかし、このとき三好長慶は松永久秀が自分を上回るほどの梟雄であることにに気がついていませんでした。この記事では松永久秀よって追い込まれ、パッとしない最期を迎えることとなる早熟の梟雄「三好長慶」について簡単に紹介していきます。
三好長慶(1522~1564)
梟雄の準備期間
三好長慶は大永2年(1522)、細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として阿波国で生まれました。
父・元長は主君である細川晴元の仇敵だった細川高国を滅ぼした功労者として、阿波国だけでなく山城国にも勢力を拡大していました。
しかし、次第に元長を恐れた細川晴元は三好一族の三好政長・木沢長政らと謀って一向衆を率い、享禄5年(1532)に元長を殺害。
当時11歳だった長慶は堺にいたものの、何とか難を逃れて母と共に阿波に逃れました。
その後、復讐の炎をひそかに燃やす長慶は12歳にして一向衆との講和を斡旋したといわれます。
父を亡くした長慶は、こののち仇敵である細川晴元に出仕しますが、それはいずれ牙を剥くための長い準備期間でもありました。
出典:https://nishinomiya-style.jp/
牙を剥いた梟雄
18歳になった長慶は河内国の所領を望み、これが受け入れられないと知ると、細川晴元を威圧するために2,500の兵を率いて上洛。
この長慶のデモは功を奏し、将軍・足利義晴は一時、妻と子の義輝を避難させるほど怯えていたといいます。
その後、近江国の六角定頼の調停で細川晴元と和解した長慶は、摂津越水城と本拠にして摂津半国の守護代となり、木沢長政、細川氏綱、遊佐長教を次々と破っていきました。
そして実力を着実につけていた長慶に、父を陥れた三好元長、細川晴元への復讐の機会が訪れます。
長慶は自ら打ち破った細川氏綱、遊佐長教を味方に引き込み、ついに細川晴元に反旗を翻したのです。
圧倒的な軍事力を背景に長慶は天文18年(1549)、中島江口の戦いで三好元長を討ち、細川晴元は近江国大津へ逃亡。
長らく畿内を支配していた管領・細川晴元の政権はここに倒れました。
梟雄に食われる梟雄
長慶が次に標的にしたのは細川晴元と手を組み、対立していた将軍・足利義晴。
この戦いは長く続くことになりましたが、天文22年(1553)に長慶が京都霊山の戦いで足利義晴、細川晴元の連合軍を破ると、ついに長慶の独立政権が誕生しました。
畿内のほとんどを支配下におさめた長慶は、将軍を凌ぐ実質最高権力者として周辺7か国を含めた三好政権を発足させましたが、ここで長慶の限界がきてしまいます。
長慶は幕府のほとんどの権益を手に入れていましたが、実際に行った政策は幕府や守護大名の制度を踏襲したものであり、さらに一度は追放した将軍・足利義輝(義晴の子)と和睦して入京を許し、形式上は将軍家の家臣・細川家のそのまた家臣であるという立場を脱することがなかったのです。
その後、長慶は弟の三好義興を失い、嫡男の三好義興に先立たれると、心身ともに衰弱。
台頭してきた家臣の松永久秀の讒言を信じた長慶は、弟の安宅冬康を誅殺するなど思慮を失っていきました。
そして弟を殺害した後、後悔の念にかられた長慶は病をさらに重くして永禄7年(1564)に病死しました。
出典:http://sugitaluwareki.blog.jp/
大河ドラマ「麒麟がくる」あらすじ関連記事
下の記事では、大河ドラマ「麒麟がくる」のあらすじや登場する人物、キャスト、ゆかりの場所などを紹介しています。本編の予習、復習にお使い下さい。