大河ドラマ西郷どん(せごどん)
伴兼之と榊原政治
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第45話では、西郷隆盛が創設した「私学校」の門を叩くものが続々と現れます。
その中には東京から戻って来た薩摩士族だけでなく、東北地方からはるばるやってきた若者「伴兼之(ばんかねゆき)」と「榊原政治(さかきばらまさはる)」がいました。
伴兼之と榊原政治は「戊辰戦争」で敗れた旧庄内藩の出身で、幼い頃より敗れた藩に対する西郷の寛大な処置を聞かされ育っていました。
この記事では、遠い九州の地で命を散らせる悲劇の若者「伴兼之と榊原政治」について簡単に紹介します。
伴兼之と榊原政治
西郷隆盛と庄内藩
伴兼之(ばんかねゆき)と榊原政治(さかきばらまさはる)は東北地方、庄内藩出身(現在の山形県)の志士でしたが、明治六年の政変後に西郷隆盛が薩摩に下野し「私学校」を創設すると、はるばる山形の地から入学するため駆けつけました。
幕末期、大政奉還がなされたあと庄内藩は西郷隆盛の江戸での挑発行動に耐えかね、薩摩藩邸を焼き討ちした経緯がありました。
このため、庄内藩は戊辰戦争で薩摩藩を中心とする新政府軍の攻撃を受けています。
しかし、西郷は戦後処理において、黒田清隆に庄内藩には領地安堵という寛大な処置を下すように命じました。
結果的に西郷の命令に反対していた長州藩・大村益次郎の工作で庄内藩は減封にはなりましたが、徹底的に叩かれた会津藩とは違い庄内藩は比較的軽い処分で済みました。
このため、庄内藩の人々は西郷に恩義を感じ、伴兼之と榊原政治のような若者たちに、その逸話を伝えていたのです。
西南戦争へ
遠路はるばる鹿児島までやって来ただけあって伴兼之と榊原政治はとても優秀な人材で、私学校は2人の海外留学も決めていたといいます。
しかし、明治10年(1877)2月、私学校生徒による政府弾薬庫の襲撃、政府の密偵による西郷隆盛暗殺未遂事件が発生すると、血気にはやる私学校生徒が明治政府に対する反旗を翻し、西南戦争が勃発しました。
西郷隆盛や私学校校長の篠原国幹は生徒の暴発を予想し、伴兼之と榊原政治には庄内へ帰るように伝えていましたが、2人は「西郷先生に、この一身を預けております。この一大事に郷里に帰ることはできません。是非従軍させてください」と涙ながらに懇願し、従軍を許されました。
なお、西南戦争の際には他の旧庄内藩士も鹿児島に駆け付けようとしたといいます。
敵になった兄・鱸成信と2人の戦死
西南戦争で伴兼之は熊本城攻囲軍に参加。
政府軍を迎え撃つべく田原坂へ転戦しましたが、伴兼之は熊本の植木にて戦死しました。享年20。
また、榊原政治はこの田原坂で伴兼之の亡骸を守りきったとされています。
その後、榊原政治は人吉城での戦いで重傷を負い、延岡の病院で手当てを受けましたが死亡。享年18。
鹿児島の南洲墓地にある2人の墓は、遠く離れた故郷・庄内の方向を向いて建てられました。
また、この西南戦争には伴兼之の12歳年上の兄・鱸成信(すずきなりのぶ)が政府軍の陸軍少尉として参戦していました。
田原坂では鱸たちは兄弟同士、同郷同士が血で血を洗う戦となり、鱸成信は榊原政治によって討ち取られたといいます。享年34。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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