大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」
御親兵
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第40話、日本全国の藩を取り潰す「廃藩置県」を考える大久保利通は西郷隆盛に対し、薩摩とも戦う覚悟を決めて欲しいと懇願しました。
しかし、この「廃藩置県」には各藩の抵抗や反乱が発生することが予想され、発足したばかりの政府にはそれに対抗する兵力がありません。
このため「戦わずして勝てる軍」が必要であると考えた西郷隆盛は、薩摩、長州、土佐から兵を集めて天皇直属の軍隊「御親兵」を作ることを提案しました。
敵対するかもしれない各藩の兵力を、先に味方の引き入れてしまうという西郷隆盛の案は、一方で行き場を失いかけていた薩摩の若い侍たちの大きな支持を得ていきます。
この記事では、来るべき「廃藩置県」のために西郷隆盛が中心になって組織する「御親兵」について簡単に紹介していきます。
御親兵
「御親兵」は明治元年(1868)、鳥羽・伏見の戦い後に天皇及び御所の護衛を目的とし設置された明治政府直属の軍隊で、当初は長州藩の一部部隊を中心に在京の諸藩の浪人を寄せ集めたものだった。
その後、戊辰戦争戦争が終結すると「御親兵」も縮小され、東京城(江戸城)の警護の任にあたっていた。
明治3年(1870)、元長州藩士・山縣有朋は鹿児島藩(薩摩藩)の西郷隆盛に対し、薩摩藩・長州藩・土佐藩の献兵から政府直属の軍を組織することを提案した。
山縣有朋には政府から離れていた西郷隆盛を政府内に入れようという思惑もあった。
またこの頃、木戸孝允や大隈重信は「廃藩置県」などによって政府の中央集権化を進めようとし、抵抗勢力には軍事力による抑えこみを考えていた。
しかし、大久保利通などは急進的な政策に反対であり、政府内でも意思統一がなされない状態だった。
このためにも、西郷隆盛の政府参画はこの流れを断ち切る良い機会だと考えられていた。
明治4年(1871)1月、西郷隆盛は鹿児島を出発して東京に向かったが、その際に出された意見書には木戸孝允たちへの批判、大久保利通の支持が書かれていた。
上京の途中、西郷隆盛は大久保利通・木戸孝允と合流して両者の意見を聞き、東京では大隈重信らが「西郷が中央集権化に反対してクーデターを起こすのでは?」などと噂されていること聞かされる。
その後、政争に巻き込まれることを嫌った西郷隆盛は政治的な問題への提言はなるべく避け、自らは新制軍隊の編成に専念するとして鹿児島に戻って準備することになった。
長州藩は最後まで「御親兵」へ献兵を出し渋っていたが、2月には西郷隆盛が上京して正式に「御親兵」が発足。
この時「御親兵」は兵部卿・有栖川宮熾仁親王を長とした1万人の軍隊であったが、実質は8,000人以下であったといわれている。
しかし、政府には「御親兵」を維持するための財政的余裕が無く、早くも3月には宮内省の予算から維持費10万両が兵部省に移された。
そして、この財政難は木戸孝允・大隈重信の主張する中央集権化と税制改革を後押ししていく。
松方正義などは木戸らに対抗するため大久保利通に起用されていたが、財政難には中央集権化と税制改革が必要であると発言。
すると大久保利通・西郷隆盛も次第に木戸らの改革に歩み寄っていった。
そして「御親兵」は名実ともに国軍として機能することになり、明治4年7月14日(1871年8月29日)に「廃藩置県」は断行された。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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