大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」
廃藩置県
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第40話では、大久保利通が日本の近代化のために『藩』をぶっ潰す政策「廃藩置県」を進めようとし、西郷隆盛も協力することになりました。
この「廃藩置県」には諸藩の抵抗が予想されていたため、西郷隆盛は組織したばかりの「御親兵」をもって自分が諸藩を抑え込むと宣言。
その言葉に政府内の反対派も口を閉ざし、「廃藩置県」は断行されることとなります。
この記事では、新政府によって行われた本当の明治維新とも呼ばれる政策「廃藩置県」について簡単に紹介しています。
※ちなみに江戸時代には「藩」という呼称は使われておらず、例えば「薩摩藩士・西郷吉之助」は自分のことを名乗る時、「島津家臣・西郷吉之助」などと名乗っていたと言われています。
廃藩置県
政府と諸藩の問題
慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古のクーデターにより新政府が樹立したものの、政権が徳川幕府から朝廷へ移っただけで、そのまま引き継がれた大名が支配する『藩』の存在への対応が問題視されていた。
明治2年6月17日(1869年7月25日)、大名から土地と人民を朝廷に返上する「版籍奉還」が行われたが、明治政府は各大名を『知藩事』に任命して引き続き『藩』の統治に当たらせ、徳川家が支配していた天領などにのみ、直轄地として『府』や『県』を設置し『知事』を派遣するにとどまった。
しかし、新政府直轄となった『府』と『県』では一揆などによって税収が減少し、たちまち新政府は財源確保に苦しむこととなる。
一方、諸藩では幕末の動乱の中で財政事情が著しく悪化していたため、自ら政府に廃藩を願い出る藩も出始める。
また、維新で活躍した薩摩藩、長州藩においても戊辰戦争で膨れ上がった軍隊の維持に限界を感じていた。
意思統一
明治3年12月19日(1871年2月8日)、大蔵大輔・大隈重信は新国家建設のために軍事・教育・司法・財政の確立の必要性を唱え、藩の廃止を提案。
一方、薩摩藩、長州藩、土佐藩は新政府直属の『御親兵』を差し出し、財政的問題の解決と政府の中央集権化を図った。
こうして財政面と軍事面において中央集権体制を進める「廃藩置県」の必要性は次第に高まっていき、兵部少輔・山縣有朋が西郷隆盛を説得。
また、山縣有朋は財政問題に悩む大蔵省の井上馨を味方に引き入れて、この井上馨が木戸孝允を説得に成功する。
やがて中央集権化を密かに目指していた大久保利通が賛成すると、政府内の意見が統一されて「廃藩置県」の断行が決定し、これに抵抗するものに対しては『御親兵』をもって鎮圧することが計画された。
廃藩置県
明治4年7月14日(1871年8月29日)、明治政府は在東京の『知藩事』を皇居に集めて「廃藩置県」を命じた。
これにより『藩』は『県』となって『知藩事』は失職し、東京への移住が命じられ、各県には代わって新たに中央政府から『県令』が派遣された。
当初は『藩』をそのまま『県』に置き換えただけであったが、その後に合併と分割が度々行われ、明治22年(1889)に落ち着いた。
新しい『県令』には旧藩とは縁のない人物を任命したほか、上層部にもその県の出身者を起用しない方針だった。
しかし、例外として鹿児島県令の大山綱良(格之助)のように出身者でありながら『県令』を務めた者もいた。
一方、山口県は逆にかつての敵である旧幕臣出身の『県令』を派遣して成功し、その後の地方行政における長州閥の発言力を確固たるものとした。
「廃藩置県」は古来より続いてきた土地支配のあり方を根本的に否定するものであり、「明治維新における最大の改革」と言えるものであった。
その後
「廃藩置県」により政府の中央集権化は推し進められたが、大隈重信が建議した新国家の確立にはまだまだ整備が必要だった。
その事業は岩倉使節団の渡欧中に明治政府を率いた留守政府に託され、「徴兵令・学制・司法改革・地租改正」など新しい制度が次々に実施された。
また、「廃藩置県」によって旧藩の債務はすべて新政府の責任となった。
新政府は朝敵となった徳川幕府による債務を外国債分を除いてすべて無効とし、『藩』以外の旗本・御家人などの債務は償還対象外とされた。
その結果、届出額の半額以上が無効となり、商人の中には破産に追い込まれる者も続出した。
特に大名貸し商人の多かった大阪は経済的に大打撃を受け、日本経済の中心的地位から転落していく。
一方で、旧藩主やその家臣は債務を免責されるなどの恩恵を受け、中には廃藩の直前に藩札を増刷して債務として届け、私腹を肥やした者もいたという。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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