大河ドラマ西郷どん(せごどん)
由利公正
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で、西郷吉之助と共に一橋派の属した越前福井藩の若き天才・橋本左内。
橋本左内は藩主・松平慶永(春嶽)の懐刀として活躍しましたが、この越前福井藩にはもう一人、天才と謳われた「由利公正」という人物がいました。
この「由利公正」は公武合体や尊王攘夷、討幕などの時代を変えるような政治の舞台で派手な活躍をしませんでしたが、坂本龍馬などとは親交を深め、来るべき明治新政府の屋台骨を築いていました。
この記事では、財政のスペシャリストとして影ながら活躍した「由利公正」について簡単に紹介しています。
出典:http://www.pref.fukui.lg.jp/
由利公正
由利公正は、文政12年(1829年)に福井藩士・三岡義知の嫡男として越前国に生まれた。最初の名前は「三岡八郎」という。
嘉永6年(1853)に家督相続した三岡八郎は、福井を訪れた殖産興業策を説く横井小楠から財政学を学んだ。
ペリー来航後、日本国中が揺れ動く中で三岡八郎は、同じ越前福井藩士の橋本左内らと奔走。
財政手腕を評価された三岡八郎は藩主・松平慶永(春嶽)に抜擢され、藩の殖産興業策を実施するために横井小楠と共に下関や長崎へと出張した。
長崎でオランダ商館と生糸販売の特約を結んだ三岡八郎は、その後も積極的な経済政策を推進して藩の財政立て直しを成功させる。
民が富めば国も富むが、三岡八郎の考え方であった。
その後、松平慶永が幕府政事総裁職に就任すると、三岡八郎は側用人に就任。
将軍後見職・一橋慶喜によって始められた長州征伐では、藩内で対立した派閥の調整を試みたが失敗し、福井で蟄居・謹慎の身となった。
しかし、この謹慎中に土佐脱藩浪士・坂本龍馬の来訪を受けて交流を深め、共に来るべき新政府の経済政策について話し合った。
当時、謹慎中だった三岡八郎には立会人として藩士が付き添っていた。
しかし、坂本龍馬は遠慮せずに「三岡、話すことが山ほどあるぜよ」と叫びながら訪問してきたという。
その後、京都に向かった坂本龍馬を見送った三岡八郎は、川沿いを歩いていた時に突風で龍馬の手紙を落としてしまった。
時を同じくして、坂本龍馬は京都近江屋で凶刃に倒れたという。
「八郎くーん!あーそーぼーっ!」
明治維新後、三岡八郎は「由利公正」と改名し、土佐藩・福岡孝弟らと共に、明治政府の基本方針を示す「五箇条の御誓文」を起草。
この「五箇条の御誓文」の原文となった由利公正の「議事之体大意」は、坂本龍馬の「船中八策」が基本になっているという。
明治政府では、由利公正は金融財政政策を担当し、財政のスペシャリストとして積極的な政策を推進するが、理解が得られず批判にさらされて明治2年(1869)に辞職した。
こんなに老けちゃいました・・・
明治4年(1871)、由利公正は東京府知事に就任。
銀座大火で東京が大被害を受けると、由利公正は東京を防火防災都市にしようと都市改造を計画。
銀座にレンガ造りの建築物を数多く建設し、道幅をニューヨークやロンドンに見習って拡張することを主張して実行に移した。
明治5年(1872)、由利公正は岩倉使節団に加わってアメリカ、ヨーロッパへ渡航し、各国の議会制度などを研究した。
帰国後、由利公正は板垣退助や江藤新平らと共に民撰議院設立建白書を提出すると、明治8年(1875)に元老院議官に任ぜられ、明治23年(1890)には貴族院議員となった。
また、由利公正は京都で有隣生命保険会社の初代社長に就任したが、明治42年(1909)に脳溢血のため東京の自宅で死去した。享年79。
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