大河ドラマ西郷どん(せごどん)
王政復古の大号令
大河ドラマ西郷どん(せごどん)、「大政奉還」によって一気に形勢逆転されてしまった西郷吉之助たち薩長の討幕派は、このままでは徳川慶喜に新体制での実権を奪われてしまうという懸念を抱きます。
そこで薩摩藩は、岩倉具視と共に朝廷内の親徳川派の公家を排除するクーデターを計画。
これが「王政復古」のクーデターと呼ばれるもので、その時に宣言されたのが「王政復古の大号令」でした。
この記事では、「大政奉還」に対する討幕派の次の一手「王政復古の大号令」について簡単に紹介します。
な?ええことあったやろ?
王政復古の大号令
武力討幕を計画していた薩長両藩は「討幕の密勅」を賜ったものの、当日において将軍・徳川慶喜が「大政奉還」を上奏し、約260年にわたった幕府政治は終わりを告げた。
これによって「討幕の密勅」の大義名分を無くし、慶喜自身は天皇中心の新体制において主導的役割を果たしていこうと考えていた。
「大政奉還」を受けて、朝廷は有力諸侯を召集して合議による新体制を定めたが、発足するまでは幕府に引き続き国内統治を委任することとした。
討幕派の公家・岩倉具視や薩摩藩は、このままでは親徳川派の摂政・二条斉敬や朝彦親王に朝廷を牛耳られ、新体制も慶喜を中心になってしまうという懸念を持っていた。
このため親徳川派の朝廷首脳を排除して慶喜抜きの新体制を目指すクーデターを計画し、慶応3年12月8日(1868年1月2日)、岩倉具視は自邸に各藩の重臣を集めて協力を求めた。
一方、12月8日から翌朝にかけて二条斉敬が主催した朝議では、長州藩主父子の官位復旧と入京の許可や岩倉具視、三条実美らの赦免などが決められていた。
岩倉具視ついに復活!!
慶応3年12月9日(1868年1月3日)、各藩からの同意を得た岩倉具視は軍事力を背景とした政変を実行に移した。
朝議が終わり公家衆が退出すると、各藩兵は御所を封鎖して二条斉敬や朝彦親王ら親徳川派の朝廷首脳の参内を禁止。
そして岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発した。
この「王政復古の大号令」では、慶喜が申し出ていた将軍辞職を勅許し、幕府・京都守護職・京都所司代の廃止が宣言され、朝廷内においては摂政・関白を廃止し、新たに総裁・議定・参与の三職を置くことが決められた。
同日、御所内の小御所で明治天皇臨席のもと、最初の三職会議が開かれた。
ここで徳川家に恩顧ある山内容堂は慶喜の出席を強く主張し、岩倉具視と激論を繰り広げる。
一向に進まない会議に、西郷隆盛は「ただ、ひと匕首(短刀)あるのみ」と言って土佐藩を黙らせ、ついに徳川慶喜を追い詰める「辞官納地」が決定した。
一方、慶喜は12月10日、自らの新たな呼称を「上様」とすると宣言し、幕府の機構を生かして全国支配の継続をほのめかした。
さらに「辞官納地」を主導した薩長らの強硬な動きは、諸藩代表の動揺を誘い、土佐藩らの巻き返しの時間を与えてしまうこととなった。
12日には肥後藩などから薩長に御所の軍隊引揚を要求され、岩倉具視や西郷隆盛は妥協案として慶喜の議定に任命することを提案。
「辞官納地」の件もうやむやになってしまう。
これをチャンスとみた慶喜は、欧米6ヶ国の公使と大坂城で会談を行ない、幕府の外交権保持を承認させ、19日には朝廷に対して「王政復古の大号令」の撤回を求めた。
これに対して朝廷は「王政復古の大号令」は取り消さなかったが、徳川幕藩体制による政治の継続を認めざるを得なかった。
どうだ?オレの政治力すげーだろ
形勢を逆転され危機感を抱いた薩摩藩は、江戸で挑発を繰り返すという強硬策を実行。
幕臣たちはまんまと乗せられ、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に鳥羽・伏見の戦いが起こった。
この戦いでは新政府軍が「錦の御旗」を掲げて幕府軍の動揺を誘い、慶喜に「朝敵」の汚名を着せて大勝利。
このとき、山内容堂は「薩長が起こした不当な戦」と抗議したが、岩倉具視は「ならば土佐藩は慶喜側につきなさい」と一喝されたという。
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