大河ドラマ西郷どん(せごどん)
岩倉周丸(かねまる)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第30話「怪人 岩倉具視」で注目を集めた笑福亭鶴瓶が演じるボロ公家・岩倉具視。
細かい笑いを取りながら、この回は完全に鶴瓶の独壇場となっていましたが、そんな中で1人話題に上った人物が岩倉具視の子「岩倉周丸(かねまる)」。
岩倉具視の息子ながら、似ても似つかぬ美少年!イケメン!としてネットを騒がせました。
この記事では、美少年・福山康平が演じた岩倉具視の子「岩倉周丸(かねまる)」と、他の具視の子について簡単に紹介したいと思います。
岩倉周丸と岩倉家
岩倉具定
「周丸(かねまる)」は、もともと岩倉具視が幼少のときに使っていた名前で、大河ドラマ西郷どん(せごどん)に登場した岩倉周丸は、具視の次男である岩倉具定のこと。
具視は4人の男子をもうけたが、具定(周丸)は後妻・槇子が産んだ子であった。
具定(周丸)の誕生以前、具視は妻・誠子との間に男子が生まれなかったため、富小路政直の子・具綱を婿養子に迎えて嗣子としていた。(具視と具綱は年齢差16歳)
しかしその後、妾から後妻になった槇子が1852年に具定(周丸)、1853年に具経(八千丸)を生んだ。(具綱と具定は年齢差11歳)
具定(周丸)は1868年、戊辰戦争時に東山道先鋒軍総督となって参謀の板垣退助と共に各地を転戦。
明治維新後、父・具視は具定(周丸)と具経(八千丸)の修学が不十分として佐賀藩で教育を受けさせ、1870年には米国ラトガース大学に留学させた。
帰国後、具定(周丸)は政府に出仕し、伊藤博文の憲法調査に随行して欧州に渡り、貴族院議員、学習院院長を歴任。
1909年に宮内大臣となって翌年、死去した。享年58。
義兄・岩倉具綱
1862年、公武合体を推進していた具視は尊皇攘夷派から佐幕派とされ、孝明天皇から蟄居処分、さらに辞官と出家を申し出るよう命じられてしまう。
具視は逆らうことなく僧体になって最初は霊源寺、その後洛西の西芳寺に住んだが、近衛忠煕が「岩倉具視は洛中に住んではならぬ」と追放令を発令したため、次の移住先に困っていた。
すると養子の具綱が洛北の岩倉村に住居を用意してくれたため、具視はここに移住し、以降5年間の蟄居生活を送ることとなった。
この具綱は岩倉家の跡継ぎとして、具視の死により1883年に家督を継承したが、翌年には隠居して岩倉家の家督を具視の実子である具定に譲っている。
実弟・岩倉具経
具定の実の弟である具経は、戊辰戦争に際して東山道鎮撫使副総督を命ぜられ、兄と共に江戸へ進軍した。
その後、奥羽征討白河口副総督にも任じられたが、若年で勉学につくため免ぜられ帰京し、兄と共にアメリカ留学を果たす。
帰国後は新政府で要職を歴任し、1884年には外務書記官としてロシア公使館で勤務した。
宮中顧問官に就任した1890年、病のため死去。享年37。
その他の兄弟
具視には後妻・槇子が生んだ次男・具定、三男・具経の他に、妾などに長男・具義、四男・道倶などを生ませています。
長男・具義は、はじめ興福寺の僧侶となってのちに還俗し、南岩倉家を創設。
四男・道倶も明治に入ってから分家を興しています。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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